富山大空襲体験文

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四谷善造 氏(富山市)

「無題」

(西暦1945年)昭和20年8月1日~2日にかけての富山大空襲の記憶の体験聞く度に、大変いろいろな苦しい事柄や状況を聞き目頭が熱くなったことがしばしばありました。私も当時の体験状況をお知らせしたいと思います。

空襲前の事柄

 東京初空襲をはじめ毎日ラジオでは「があがあ東海軍管区情報敵B29、○○機は御前崎方面より北上進中の模様なり」と伝える。その岬の名前がいろいろ変わり、いろいろの方角から飛んでくる。また飛行機の数などを聞くたびに今度は日本海へ出て富山方面に来るのではないかと耳をそばたてて聞き入っていた毎日でした。富山は必ずやられるが立山方面からは絶対来ることはない(気流が乱れエアポケットがあるから)とのことや、高岡には大仏さんが睨んでいるからあそこは落とさないとか、金沢にはアメリカの知人がたくさんいるから落とさないとか色々なうわさを聞くことがあった。
 富山には軍需工場があるしドックもあるからと。何時もこの知らせが出ると頭の中に自然に浮かんで来る様になってしまった。その日が来たのだ。現実にこれから起こる悲しい悲惨な出来事が起こることも知らずに。

空襲の当日

 あれは夕方近くだったと思う、何時もの様にラジオはB29の来襲を伝えていた。その内にあの重苦しいB29の独特の爆音が聞こえてきた。我が家には父母・義弟・妹3人と私の7人家族がいた。今度こそやられるのではと父と義弟と私の3人で夕暮れ空を見上げていた。
 B29がやってきた1機・2機・3機と一列になって飛んで来る。重苦しいブルーン・ブルーン・ブルーンと飛んで来る。何も落とさずに飛んで来る。あれ!どこへいくんやろ、次から次と間隔をおいて飛んで行く、たくさん飛んで行く、ただぼーぜんと見上げている。あれ!あの飛行機が最後だぁ、なんだ落とさなかってやれやれだ。さあみんなかやの中に入ってそのまま寝ようと。(この一編隊が新潟県長岡市を空襲したとあとで聞かされた)
 しばらくすると、外でがゃがゃ人声がする。今夜は危ない様だと言いあっている。いや今、全部行ったから大丈夫だと・・・・
 私は父に「母と妹達を裏の防空壕にいれては」と言った。父はその方が良いと言い母は一番下の妹をおんぶし両手にほかの妹達の手を持って裏の防空壕へ行った。すぐに戻って来て「あの防空壕に水が一杯入っていて中には入れないよ」と言った。「折角おんぶしているのなら大事なカバンを持ってかまて(上手=南富山方面)の親戚へ行かれ、それから品物を疎開してある赤田(蜷川)へいっとられ」「なら、そうすっちゃ」と言って母は南富山駅の方に歩いて行った。残ったのは父、義弟、そして私と3人であった。それからどれだけ過ぎての事だったか「あれ!また飛行機の爆音が聞こえてきた」と父に言った。「おかしいぞ、さっきの飛行機戻って来たがかのう」と言って外に出た。その頃には家の電気は皆黒布で外に光が漏れない様にしてあり夜空は少し明るい感じだった。
 八ケ山あたりから飛行機が飛んできた「あれ!今度の飛行機えらい低く飛んでいる。おかしいぞ」
 私達の方角では、富山駅付近にさしかかっていた。「あ!何か水みたいなものを撒いているぞ」「あ!次の飛行機が飛んできた、何か物を落とした」と思った瞬間いっぺんにウヮット火の手が上がった。あ!だんだん炎で明るくなってきた。「飛行機が白くまた飛んできた。高い所から何か落としてきた。途中で破裂し、たくさん落ちてきた」どんどん火の手が上がってくる。「あれ!落として行った飛行機新庄方面の上空で明るい物(照明弾)落とした。空はますます明るくまっ昼間の様だ。
 飛行機はその照明弾を目当てに飛んでくる。焼夷弾を落として照明弾を落として行く。この繰り返し、繰り返しが続いている。(あとで波状攻撃(おさしみを切る様に)と聞く)
 「あれ!西町の方から、たくさんの人が来る」ふとんをかぶった人、何も持たずにハダシで来る人、子供の手をとって黙々と私の家の前を通って行く。南富山方面へ。「あれ!あの人、他人の家へ入って行くあれ!下駄を履いて行く」大勢の人が通って行く。ただ黙々と・・・・
 あの時、私達は此処までは来ないと思っていた。わが家が燃えるとは思ってもいなかったそのうちにあっと思う間に私達の町内に火の手が上がった。人の気配は全然なくなっていた。隣の畳屋さんの藁が燃えている。火を消しに私はバケツで防火水槽の水を汲みかつける。火はだんだん大きくなってきた父も義弟も一生懸命消すがだめだ。
 「おい、向えの家が燃えてきた、二階の倉庫のベルトが一杯道路に転がってきたぞ」「あ!家が明るい燃えてきた、逃げよう、そのまま土足で家に上がって、防空頭巾を水につけて」
 私の家には3発の焼夷弾が落ちた。偶然にも1発は泉水の近くにあとの2発は瓶洗い場に落ちたバケツに水をいれたたきつける。消えた。家が助かったと思った。
 「なに、むたむたしとんがけ、早く」父の声・・・言われるままに裏戸から出る。
 「あ!金子さんの土蔵の中から火が吹き出ている。こんな火の粉の中をどうして行くがけ」「むたむた言うなあの納屋の中へ行け」3人火の粉の中を走り進んだ。「後ろの戸を開けて逃げよううしろの川まで行けば助かるさあ行くぞ」黙ってついて行く。
 「あ!飛行機が又落としたあ!危ない川に入れ」その瞬間バタバタと焼夷弾が落ちてきた。私達は川に積んであるハサギの下に潜り込んだ為に助かったのだ。手に持っているのはバケツのみであった。
 それから、川の土手伝いに堀川小学校のグランドまで走った。途中の川にはたくさんの人が入っていた。土手に置いてある荷物が足に引っ掛かり川に転がっていく。その時の皆の様子が不思議と記憶にない。夢中だったから。
 南富山の親戚に着くが人影もない入口に自転車とふとん1枚が転がっている。
 「あれ!誰もいない、どこへ逃げて行ったのかな」父は私に「この自転車に乗って赤田の疎開先へ行け」と言った。しかし自分だけでは行く気がしなかった。
 「一緒に行こう」と自転車にふとんを付けて3人で走った。目的の赤田の家に着いたがその家の人達だけで、母も妹達もいない、「あれ!うちのもんたち来なかったけ」「なーん、誰も来られないぜ、あんた達大変だったろう、ここまで落ちたら日本も終わりだちゃ。裏の藁にゅで休んでおられ、そのうちに来られっちゃ」「なら、そーすっちゃ」3人は裏の藁にゅに各自ばらばらになって空に飛んでいる飛行機を見ていた。どれくらいの時間が過ぎたか・・・・「あれ!あの飛行機こっちに向って飛んでくる、あ!焼夷弾を落とした。危ない」と叫んだ瞬間、私達のいる藁にゅに落ちてきた。私と義弟は、とっさにまた逃げた。赤田のお宮さん(地主神社)まで走った。そこにも一杯の人がいた。
 うとうと眠って我にかえった時はもう空が明るくなっていた。2人で赤田の家に戻って見ると消防車が来ていた。土蔵の戸前が燃えていたのだ。あとの話だが父の話ではあの飛行機が最後の飛行機だったとわかり、藁にゅの火の粉が土蔵の戸前に移って来たので一人でポンプで水を汲んで大丈夫だぞ大丈夫だぞと叫びながら消していた。そのうちに集まって来られて母屋も助かったと聞かされてた。土蔵の上を少し穴をあけ、そこから消防車で水を撒き入れた。中の物は助かった。何時まで経ったか、母と妹達が来ない。おにぎりを頂いて南富山の親戚へ帰ると母と妹達いた。みんな助かったのだ。これからこの家で私たちの仮の住まいが始まる。
 その他に、祖母、母の姉、弱い身体の妹がいた。この3人は以前から古宮の湯(今でもある)で湯治中であった。そこでこの空襲にあったのであとで聞いた話だが付け加えて置きたい。
 逃げたのは、刑務所(今は城南公園)の東側だった。ここに集中して焼夷弾が降り注いだようだ。祖母は「私がどうなっても良い、この子を連れて逃げられ」と言ったそうで南の太郎丸の方へ逃げたそうです。祖母は一人田んぼに居たら知らない人が「あんた、こんなとこに居たら死んでしまうがいね。溝までおんぶして上げる」と言って連れて行って下さったそうです。
 私達は母と妹達と会ってから刑務所周辺を探し回り。いろんな出会いを見ながら全員無事を喜びあった。

空襲のあと

 私達7名は南富山の親戚で同居し、祖母達3人は父が赤田の家を救って頂いたとのご恩と以前からのお付き合いのお陰で同居させて頂く事になった。
 8月1日~2日にかけての大空襲の後すぐにわが家の焼け跡をと思い南富山の親戚から歩いて女子高校(今のいずみ高校)前まで来たがとてもコンクリートが焼けていて行くことを断念して帰った。その翌日(3日)わが家の前まで来た。残っているのは、能登石の麹室の無残な姿でわが家の焼け跡とわかった。土蔵も一つ残っている。あとはくすぶりつづける大豆の山、みそ桶の残がい、曲がりくねった鉄管、機械類、一塊のガラス瓶・一滴も残っていない醤油の桶、ただぼっとして立っていた。その日は何も手をつけずに帰って母にその様子を話した。
 不思議と雨は降らない。翌日焼け跡に行く。あれ!昨日あった土蔵がない、あれ!おかしい、(土蔵の中が蒸されてつぶれたのだと)少しづつ片付けが始まるが何処から手を付けて良いやら判らない。焼け跡特有の匂いがする。日がかんかん照ってとても暑い。食べられるものを探す。あった!40㌔入りのカマスに入った塩10俵が積み重なっている。完全な焼塩だ。ありがたい。また、探す。人の背よりも高いみそ桶に入っていたみそが焼きみそになって底から1.5m位残っている。見ると上には壊れた焼け瓦や燃えて炭になった木材などがある。そっと取り除いて焼きみそをほじくる。まだあったぞ!くすぶった大豆の山、スコップで黒焦げになった豆を取り除くとほんわりと香りのよい煎り豆が一杯ある。(実は空襲の前に貨車で一台入荷)これらを道路わきまで運び出し親戚にあった大八車をもって来て持ち帰ったこともある。
 女子高校前では朝、昼、晩と炊き出しのおにぎりが一人一個づつ配られる。ならんでいる列が長い。たまには、カンパンも配られる。所々に、焼けたトタンを囲んで住まいが出来てくる。夜にはローソクの明かりが付く。次第に落着きがでてくる。しかしこれからが苦労の連続だった。
 焼けてから3、4日が過ぎてからだったと思うが、父が県庁へ行って罹災証明書を貰ってこいと私と従兄弟の進君と2人で電車通りを歩く。焼けた大丸百貨店の哀れさ、赤レンガの銀行の残がい、電信柱が黒焦げで立っている姿、消し炭の人間、富山城のお堀にぷかぷか浮かんだ多数の人の姿、お堀に流れ込む土管の中の膨れた人々、この人達をトビで引っかけてトラックに積み込む人達、県庁に行けば、血を流しうなっている傷ついた多くの人達、そんな多くの人達の姿を見た。
 その後、学校(五艘の富山商業)へ集合の知らせが来た。神通大橋は焼け落ちたために連隊橋(富山大橋)を渡って行った。学校の片付けが毎日だった。ある時橋の近くへ行くと、とても気持ちの悪い嫌な匂いがしていた。そっと覗くと河原の広っぱの3か所にうずたかく積まれた死体の山、その山を焼いている。その光景、場所は今も通るたびに思い出す。
 9月からだったと思う、楡原の高田アルミ工場の寮で授業が始まった。毎日、富山駅発11時17分の高山線で通学したことが想い出として残っている。


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