富山大空襲体験文

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諏訪紀子 氏(富山市)

「生かされて(もらった命)」

 新聞に目をやるとコロナで中止になっていた花火大会が鎮魂を思い、平和を願う思いから、今年は三年ぶりに行われる事を知り、日頃忘れていた戦争当時を思い出しました。ウクライナの惨状を知るにつけ、日々平凡に暮す私達にも、日本そして富山にも戦争と云う忘れられない時がありました。
 昭和二十年八月二日未明の大空襲です。
 私は六才、夜中空襲警報で起され、急いで外に出てみると、駅前方面、西田地方方面は、真赤に焼え、一旦家に物を取りに入ろうとしましたが、いままで寝ていた部屋は焼夷弾が落ちたのか火の海で、そのままおじさんに背負われ松川へ、松川に入ると沢山の人がフトンを水につけ、頭からかぶって動きません。
 空から無数の白いものが降って来て、それが紫色の光となり、川面に浮んでるのです。
 リンが焼えていたのだと・・・。
 私達も川につかっていると父子が「すみません」と私たちが一歩下り親子が一歩前に出たとたん、私の目から見えなくなりました。飛んだ様に見えました。焼夷弾の直撃を受けたのだと後で分かりました。
 ほんの一瞬のことでしたが、あの親子は私達の身代わりになったのだと思います。時々思い出しますが、今あるのはあの親子からもらった命だと。
 川から上ると綿入れの着物は、あっと云う間に周りの熱で乾き、呉羽に向う為富山大橋を渡る時、河原には助かった人や大分けがをした人達沢山の人が集っているのを見ました。
 昨年仲間と氷見方面に行った時、当時を知らない若い友が島尾海岸に、富山の空襲で亡くなり流れ着いた人々を供養した塔があると案内してくれました。こんな遠くまで流されて来たのかと思うと・・・。そして遺体を集めて供養された地元の方々を思い当時のことを改めて思いました。
 一晩で沢山の人が亡くなり、街は県庁、電気ビル、大和の建物が形だけ残し焼野原に。皆、普通に生きていたのに、戦争は何も残さない、人の命も形あるものもすべてなくしてしまうのです。悲しみだけを残して。
 それでも人は苦しみ、悲しみをいだきながらたくましく前を見て生きて来たのです。

   なにげなく 過き去し時
       今しみじみと 生をよろこぶ


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