富山大空襲体験文

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佐伯悦子 氏(富山市)

「戦後77年を迎えて 富山大空襲を思う」

 昭和20年8月1日夜~8月2日未明 当時私は14才で県立富山高等女学校の二年生でした。8月2日未明空襲警報の発令のサイレンが鳴りひびき私は目をさましました。
 電燈に黒いカバーをかけ、防空頭巾をかぶり両親と姉、弟2人と共に足早に外へ出ました。
 するともうアメリカの“B29飛行機”が無数に上空を飛んでおり焼夷弾を落下し始めております。その時父が早く富山城趾の中へ走る様に云いました。そして必死で富山城趾の中へ・・そこに「太鼓橋」“日常云っていた名前”の方へ行く様に目ざして走りました。焼夷弾は私達の走る足元へ集中的に落ちてきたことが記憶に残っております。その橋の下に小さな池があり細い水が流れていてその池に親子6人体をうずまっていました。その時池の近くに「爆弾」が落ち体が地面より上へ持ち上ったことを憶えております。夜が明けると私たちの顔はドロまみれになっており池の水で顔を洗い我が家の方を見ると家はなくなっており一面の焼け野原になっていて富山市内は全部消失していました。母は逃げる時、佛壇から佛様の「阿弥陀如来」を背負って家を出たことを聞かされお蔭様で親子が助かったと感謝しました。
 ほんとうに着のみ着のままの姿になりました。
 後で聞きました話しですが神通川の河原へ逃げました人たち大勢が焼夷弾によって亡くなられたそうです。
 女学校も全焼し、後不二越工場の寮の假校舎で疊の上で机を並べて座っての授業が始まりました。
 富山の大空襲そして終戦後の生活は食糧難雑布にする物、布端もなかったこと、多難な道をたどられた両親のことを思い出します時“有りがとう”と一言につきます。
 今ここに戦後77年を迎えて戦前戦後の多難な道を歩んで来た私達の時代を思えば今現在の平和な、おだやかな時代が永遠に続きますことを願わずにいられません。



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