富山大空襲体験文

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山崎百合子 氏(高岡市)

「富山大空襲から生き延びて」

 昭和20年8月1日午後10時ごろ、米軍機が富山上空に現れ、そのまま過ぎ去りました。
 皆がほっとして就寝したその夜、8月2日未明、B29爆撃機が来襲しました。
 当時、私は20歳。厳格な父と優しい母と5人の兄弟の7人で南田町に暮らしていました。皆が寝静まった深夜、突然の空襲警報に飛び起きた私たちが目にしたのは、焼夷弾による火の海でした。家族全員で防空壕に入ろうとしましたが、すでに多くの人で埋まり、このまま中に入ると焼け死ぬのではないかと直感した両親と北の方向(海、富山湾の方向)へひたすら逃げました。当時6歳だった一番下の弟の手を握り、火の海、悲鳴の中を必死に逃げました。逃げる途中、母とはぐれてしまいましたが、私を呼ぶ声に見ると母が田んぼに入れ、と叫んでいます。私達は母が唯一持ち出した夏蒲団を濡らして頭からかぶり、田んぼの泥の中にもぐりました。体の弱かった弟の唇は紫色になり、焼夷弾の落ちるプシュ、プシュという音と悲鳴の中、死を覚悟しながら泥の中で耐えていました。息が苦しかったのですが、母に「鼻に田んぼの泥をつめてごらん」と言われ泥を鼻に詰めると不思議に息が楽になりました。幸い田んぼの水が暖かかったので、長い時間入っていられました。
 夜が明け、空襲の音が静まり、田んぼから顔を出すと、あぜ道にいた人の多くは焼夷弾を浴び、亡くなっていました。田んぼの中に入ろうとしたのでしょうか、上半身はなく、下半身だけの遺体もあります。私たちは田んぼの泥の中に埋まっていたことで助かったのです。その後、私たちは住んでいた家の前で別れ別れになっていた父と次男に再会できるのですが、父が「生きていてよかった、生きていればいつか元の暮らしに戻れる」と言った言葉が今も忘れられません。
 何か食べられるものを、と神通川へ向かった先には信じられない光景が広がっていました。川面はおびただしい数の焼死体で覆われています。まるで川へ逃げた人たちが恰好の標的とされ、集中攻撃を受けたかのようです。遺体をうずたかく積んだトラックが荷台からぼろぼろと遺体を落としてい過ぎ去ります。まるで地獄絵を見ているようでした。夜になるとどこからともなく火の手が上がり、いたるところから火の玉が舞い上がっていました。家の近くの防空壕では逃げ込んだ人がみんな亡くなっていました。私たちも防空壕に入っていたら命はなかったに違いありません。
 あたり一面焼け野原で、食べるものをさがしても、小動物や虫さえいませんでした。口に入るものは何でも、雑草や松の葉まで食べました。8月の猛暑の中、野宿をして過ごしましたが、空腹の上、夜露に塗れ、体力はどんどん消耗していきました。
 もうどうしようもない、と親戚を頼って新潟へ行きましたが、人に頭を下げたことのなかった父が家族を救うために親戚に頼らざるを得ず、肩身の狭い思いをしなければならなかったのは本当に辛かっただろうと思います。
 終戦となり、私たちは富山にもどりましたが、元住んでいた場所には見知らぬ人が小屋を建てて住んでおり、ここは私たちの土地だと主張しても、焼け野原ではその証拠もなく、悔しい思いでそこを離れなければなりませんでした。
 毎日が飢えとの闘いでした。戦後の混乱期、富山の町には闇市ができ、泥棒が横行、孤児の窃盗団もいました。配給はありましたが、家族7人におにぎりが一個。父がどこからか見つけてきた、便器ではないかと思われる容器を洗い、鍋にして一つのおにぎりをおかゆにして分け合いました。
 体の弱い赤ちゃんやお年寄りが次々に亡くなっていきました。先が見えず、まさに生き残るのも地獄でしたが、家族で励ましあい、絶対に生きる、という強い思いと希望を支えに生きながらえることができました。
 戦争ほど悲惨で残酷なものはありません。国の指導者によって引き起こされた戦争の犠牲になるのはいつも、どこでも弱い庶民、子供、女性、お年寄りです。2週間、あとたったの2週間早く戦争を終わらせていれば、富山の空襲も、広島、長崎への原爆の投下もなかっただろうと思うと悔しくてなりません。
 国や役所はいざというときには何も役に立ってくれませんでした。防空壕も竹やりもどれも私たちを助けてはくれませんでした。
 私を助けたのは、父が教えた生き抜くことへの強い思い、希望、母に教わった生き延びる知恵、家族の支えです。
 私は今でも、花火を見ると焼夷弾が白い光の輪を広げて落ちてくるのを思い出します。
 そうして90歳をとうに過ぎました。悲惨な戦禍の中を生き延びてこられた幸運に
 「生かされて」いることを感謝する毎日です。世界中から戦争がなくなることをいつも祈っています。


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