富山大空襲体験文

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中村宗充 氏(富山市)

「富山大空襲」

 1945年(昭和20年)8月2日の未明、富山市は米軍機のB29による大空襲を受け、死者約3,000人、市はまる焼けになりました。
当時、私は堀川国民学校5年生でした。それまで、何回も敵機が偵察に来ました。一機でも空襲警報となり、授業は終わり、私たちは皆家へ帰るのです。途中上空を見上げると、一万mの上空の敵機は小さく、白く、光っていました。そのころ一万mまで届く高射砲はなく迎え撃つ日本の飛行機もありません。子供心にもこの戦争は大変だと思いました。
 8月2日は寝苦しい夜でした。一家6人は、蚊帳の中にいました。それでも、足にはゲートルを巻いて、いつでも逃げられるように準備していました。ラジオから流れる「東海軍管区情報(繰返し)敵〇機は御前崎上空を北上中」というアナウンスがあると、数分後に富山市は警戒警報、続いて、空襲警報となるのです。
 当時は、TVはありません。ラジオだけが頼りなのです。それまで、空襲警報になっても、その都度、解除になるという繰り返しが続いていたので、今度も同じだろうと安易に思い、逃げ遅れたのです。しかし、8月2日未明は違っていました。
「ドカーン」という大きな音と共に爆撃が始まったのです。さて、逃げようとしましたが、行手は全て火柱が上がっており逃げ道がありません。
 やむなく、防空壕の中へ入りました。この防空壕は家の裏手に父が作った簡単なものです。
 当時、父は45才、徴兵もされず、なぜ家にいたのか。父は昔(1918~1922)のシベリヤ出兵の志願兵でしたので、この度の戦争では徴兵を免除されたのです。
「人生、塞翁が馬」と云います。何が幸いし、何が不幸になるかわからないのです。
 この年(1945年、昭和20年)4月、長兄は海軍兵学校へ入学し、不在、次兄は旧制富山中学、二人の妹は4歳と2歳でした。
 防空壕の裏手にはかなり広い畑があり、又、防空壕の近くには小さな「井戸」がありました。当時は水道がなく、井戸水を飲んでいました。しかし、その頃は満足に食べるものがなく、お米も魚も全て統制(配給制)されていました。お米は戦地に送るため、銃後(じゅうご)の私達は代用食でした。お米は月に3日分しか配給がなく、あとは「イモ、大根メシ」でした。学校の運動場は全部イモ畑、「ドジョー、フナ、ナマズ」田甫(たんぼ)にいる「イナゴ」も食べました。夏休みの宿題も袋一杯の「イナゴ」でした。お腹一杯白い御飯を食べることが夢でした。
 さて、空襲が始まり、防空壕の近くに焼夷弾の直撃がなかったこと、裏の畑から新鮮な空気が送り込まれ、家は完全に燃えましたが、怖ろしい煙を吸うこともなく、私達一家は奇跡的に命拾いをしたのです。焼夷弾は近くの栗の木の所へ「ザー」という音と共に着弾したようです。
 防空壕の近くに井戸があり「水」があったことも幸いでした。
 翌朝、まる焼けの家の玄関あたりで黒焦げの死体がいくつも転がっていました。歯だけが光っていたことを忘れることが出来ません。
 燃えるものが全て燃えつき空襲は終わりました。
 翌朝、母が地面の中へ埋めていた大豆をスコップの上で煎って食べました。スコップの柄の部分は燃えてありません。裏の畑のキュウリは熱のため黄色く変色し、口へ入れると温かいキュウリでした。
 それから、父の出身地、東福沢まで30kmの道を全部歩いて行きました。
 二学期が始まり、私は福沢小学校へ編入しました。長兄も海軍兵学校から戻り、蓮町にあった旧制富山高校へ編入しました。私は、二学期の途中から堀川小学校へ戻りました。懐かしい友達との再会を喜びましたが、空襲で亡くなった友人の姿はありません。
 戦争は、どんなことがあっても二度と起こしてはなりません。
 最後に、富山には大空襲の慰霊碑(犠牲者の氏名を刻んだ石碑)がありません。作って欲しいと思います。


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