富山大空襲体験文

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室田佳子 氏(富山市)

(無題)

父、松原信行は、帝国大学(京大)卒業後、大連関東局に就職し、大連大和町に居住し、私達兄弟は、そこで誕生しました。
はからずや、父は病気で昭和17年12月16日に、37才の若さで死去致しました。
母は、20才後半(29才)の若さで、10才を頭に6人の子供を持ち、昭和18年1月に内地(日本)に帰って来ました。
故に、富山大空襲(昭和20年8月)当日8月1日夜、空襲警報で防空壕に入りましたが、母はあぶないと思い、3才に満たない末っ子をおんぶし、小さい子から母の手をつなぎ、B29が焼夷弾を落とす真っ赤な火の下を神通川(磯部)の土手に逃げました。その時、母の耳もとで「こっち、こっち」とささやく父の声にしたがい、桜の木の下の焼夷弾の落ちた所、落ちた所へと逃げました。(なぜなら、落とした所へは、落とさないから……)そして、逃げていると一番外側の兄(信嘉)の所へ焼夷弾が落ちてきたので、母は一瞬、信嘉はダメかと思った時、桜の木の枝が跳ね返してくれました。そうして私達兄弟6人と母、全員無傷で助かりました。
母は、桜の木の枝のもとで、みんなに毛布をかぶせ、こんなにもむごい(川原でたくさんの人の死など)光景を見せたくないと私達みんなを守ってくださいました。
(私の近所のお友達は、川原に逃げ、焼夷弾を受け、後に義足となりました。)
母は終戦後に、私たちに、耳もとで父の声などを聞いたと話してくださいました。
父が天国、空から私達みんなを守ってくださったと思いました。
そして、ようやく夜が明け、神通川の土手から歩いて、歩いて、歩いている途中、戦火の中、3才~13才の小さい6人をつれている母をみて、出合ったお寺さんが「よーく、みんな無事で!」と一休みさせてくだされ、まっ白なあったかいおにぎりを1ケずつみんなにいただきました。とにかくおいしく、その暖かい心づくし、今日でもかすかに脳裏をかすめます。
ようやく古沢村の山崎という農家にたどり着きました。農家に知り合いもなく、その当時のくみ取りに来てました農家です。終戦になり、いつまでも山崎様のお世話になっている訳にもいかず、1ヶ月足らずで焼けあとのわが家の所へ、親戚の人達に小さな家を建てていただき、もどりました。
まわりは何もなく、大和百貨店だけが残っていたように覚えています。
防空壕の中は、入れたものすべてが灰になってましたが、父の写真だけが額縁のまま、その灰の中にありました。燃えないで、それだけがそのまま・・・(今も実家にあります。)

父がみんなを一心に戦火から守ってくださったのだと思いました。
富山大空襲を幼かった私達兄弟は、身をもって体験致しました。大きな体験を致しました。
お友達は、足をなくし義足で、その後の人生をいかにお過ごしかと思うと・・・
胸がつまります。
現在、6人兄弟のうち、長男の兄(信嘉)が昨年(平成28年)11月に84才で亡くなりました。
戦後、私達兄弟6人を女手一つで県立高校まで卒業させてくださいました、母の50回忌も昨年でした。
さて、あと私達5人兄弟は、それぞれに置かれている家族を思い、日々を元気に仕事もし、過ごしています。
絶えず、先祖(祖父母、父母)に深く感謝しながら・・・・。


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