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mark.gif 第二十九号
平成11年6月3日
●収蔵品紹介



収蔵品紹介
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『立山船橋真景図』(たてやまふなはししんけいず) 木村立嶽

 

 木村立獄(りつがく、りゅうがく)は富山生まれ。
 名は雅経。(生没年1825〜1890)
 狩野派の絵画を学び、富山藩の十代藩主前田利保(まえだとしやす)にも絵師として取立てられていました。 また江戸城や御所の絵も手掛けています。


 枝の曲がった松の木のそばから、大きく弓なりになった船橋が、川の向こう岸まで伸びています。 よく見るとその船橋の上に、歩いて渡っている人の姿もあります。
 また上方には雲の中に立山連峰がそびえています。
 江戸時代に越中の名勝と言われた神通川の船橋と、立山の雄々しい姿が1つの絵の中に描かれています。


 さてこの富山の船橋は、どのような橋で、いつどこに架かっていたものでしょう。
 今回はその船橋のお話です。
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 川を渡るとき、どのように渡るでしょう。
 平成11年5月に開通した瀬戸内海のしまなみ海道のような立派な橋が、現在では架けられるようになりました。
 しかしそのような橋がない場合はどのように渡るでしょうか。 ・・・自分で歩いてまたは泳いで、馬や船などを使って、板や鋼などで橋をつくって・・・など方法は様々です。
 ここ富山では、江戸時代に"船橋"が神通川に架けられていました。
 その富山の船橋について紹介していきます。


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rogo4.gif  富山の神通川は、江戸時代以前は船で渡っていました。
 それは富山城が建てられた頃の、天文年間の1500年代半ばにさかのぼります。
 この頃神通川は富山城の西から城のすぐ北側へ流れていたのです。

rogo5.gif  富山も城下町として発展するようになりました。
 神通川を渡り富山町に入るルートは、主要な街道となっていったので、常時渡れる橋を架けようということになったのでしょう。
 しかし橋では、水量の多い神通川ではすぐに流されてしまうので、船橋とすることとなったのではないでしょうか。

rogo63.gif  さて、富山藩が富山城を中心として 領地を治めるようになり、船橋も富山藩の管理を受けることになりました。
 船橋は北陸道の一部という重要なルートであり、また神通川の北に広がった町と、城下の町とをつなぐ道でもあったのです。


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【 船 橋 関 係 年 表 】

天文12(1543)頃 富山城の築城 この頃に船渡しが始まったか
天正8(1580) 船賃をとることなど、渡しについての佐々成政の定書が出る
天正13(1585) 佐々成政 越中から肥後に転封される
天正16(1588) 船賃は商人からは1銭、武家は無料などの舟渡の掟が出る
慶長 2(1597) 前田利長が守山城から富山城に移った際に、船方が同行する
慶長10(1605) 利長が隠居し、加賀から富山城に移る
この頃 富山の神通川の船渡しをやめ、船橋にかわる
元和 3(1617) この頃 船橋の船は32艘
寛永 8(1631) 船橋の船を新しく作り替える このとき船は52艘
寛永16(1639) 富山藩が加賀藩より分藩される
寛永18(1641)    船橋の管理などについての掟が出る
(修理人は越中の4郡のうちから申し付ける、橋の管理人は加賀藩と富山藩両方から1人ずつ出す、など)
万治 2 (1659) 領地替え
(散々になっていた富山藩の領地がまとまる)
この頃船橋は架け変えられ、管理も完全に富山藩が行うこととなる
寛文元(1661) 富山城下の再構成、整備が始まる
この頃に船が64艘となるか
宝暦 2(1752) 船橋の鉄鎖を打ち直して、1条は輪鎖にした
寛政11(1799) 内山権左衛門(逸経)が常夜燈を寄進する
文化 4(1807) 九代藩主の利幹(としつよ)、内山逸経に命じて船橋の板を2枚ずつ増やす(5、6枚となる→幕末には7枚になる)

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川に船を並べてつなげ、船の上に板を渡して、人馬が通れるようにした橋です。
富山の船橋は、鉄鎖(くさり)でつくられていました。

下の写真は、明治期の古写真で、ほんものの船橋が写っています。
船の大きさや板の長さなどを思い浮かべてみてください。
 
◆船は64艘を横へ並べます。
  
1艘の 長さ 6間余り 約11m
6尺2寸 約1.9m
深さ 1尺7寸5分 約53cm


◆くさりは、船の先をつなげます。
  おもりの役目もしていたのでしょう。

   1つの輪の長さ 約25cm


◆板は船の上に、横へ並べます。
  (3、4枚→後に7枚まで増やされます。)

1枚の 長さ 5間2尺 約10m
幅は 1尺2寸以上 約36cm
 (2尺〜1尺7寸)
厚さ 3寸 約10cm
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 寛政11年(1799)富山の町年寄(まちどしより)であった内山権左衛門が、船橋の両岸のたもとに常夜燈(じょうやとう)を寄進しました。
 この常夜燈は戦災をも免れて、現在も残っています。
2902.jpg  かつて船橋の中央には、船橋の安全を祈り橋を切り分けるときに使う鍵があり、これを船橋大明神としてお祭りしていたといいます。
 また船橋の近くには金刀比羅神社(現 安野屋町(やすのやちょう))と、神明社(現 船橋今町(ふなはしいままち))があります。
 この3つの神社(神様)の参道の入り口に、献灯として常夜燈が設置されたと考えられます。
(2基の常夜燈にはそれぞれ金比羅大権現雨宮伊勢太神宮と刻まれています。)

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常夜燈(南) 常夜燈(北)


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 常夜燈について、富山大学附属小学校の皆さんからお便りをいただいたことがあります(昨年度ですが・・・)。
 それは、なぜ常夜燈というものがあるのか、なぜ現在まで残されているのか、という疑問に、それぞれ皆さんが自分で答えを探って意見を書いてくれたものでした。

その意見は・・・

 (1)船橋の名残を残しておきたいから
 (2)今でも街灯として残せるから
 (3)遺産として残しておきたいから
 (4)ちょっと暗いときに船のために使うなどが出たようです。
 (附属小学校のみなさん、お便りありがとう)

 皆さんのまわりにも古い建物や石碑など、保存され残されているものがあるでしょう。
 どんなものなのか、なぜ今まで残されてきたのか、などと考えてみるのも、ちょっとした歴史の旅になるのではないでしょうか。

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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)