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この写真は昭和9年に富山で写されたものです。たくさんの男の人が写っています。半数は日本人ではないようです。 実はこの写真には世界的に有名なある人物が写っているのです。 さて、その人物とは? |
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今シーズンの、大リーグでのマグワイヤ選手とソーサ選手のホームラン争いは記憶に新しいところです。最後はマグワイヤ選手が70本のホームランという大記録を打ち立てました。ものすごい記録ですね。 ところで、“大リーグ”“ホームラン王”といえば思い浮かぶ有名な人物がいます。そう、「野球王 べーブ・ルース」です。野球はよく知らないという人でも、この人の名前は聞いたことがあるでしょう。上の問題の答えはベーブ・ルースなんです。(後列左から5番目)。つまり、ベーブ・ルースは富山に来たことがあるんです。 |
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昭和9年11月2日、ベーブ・ルースを総帥とする全米選抜チームが来日しました。全米チームの来日は昭和6年に引き続いて2回目のことでした。日米両チームは4日の神宮球場での第一戦を皮切りに、全国12都市で16試合を戦いました。一行はどの都市へ行っても大歓迎をうけました。このベーブ・ルース一行を招いたのは富山県出身の読売新聞社社長正力松太郎(しょうりきまつたろう)です。 ※試合数については18と書かれているものもある。 |
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射水郡枇杷首村(現大門町)生まれ。実業家・政治家で、1924年に読売新聞社の社長に就任して世界有数の大新聞の基礎を築いた人物です。日本プロ野球の生みの親で、日本野球連盟会長としてプロ野球の振興に尽くしました。 |
さて、この日米野球戦は全国の都市で行われましたが、招致者の正力松太郎の郷里である富山でも是非開きたいということになりました。そこで富山野球協会主催による日米野球戦が富山でも開催されることになったのです。 |
東京、函館、仙台、富山、横浜、静岡、名古屋 大阪、小倉、京都、大宮、宇都宮 |
昭和9年11月13日、神通廃川地の神通球場で「日米対抗野球大会」が行われました。周囲を板で囲った会場には当日多くの人々が詰め掛けました。金沢からの臨時野球列車の到着、高山方面からの団体観戦、県下各学校の団体など、富山のみならず周辺各県からも人々が押し寄せたのです。大人から子供までものすごい人気でした。午前10時開場にもかかわらず、すでに午前7時頃からファンが殺到しました。 |
正午に全日本軍が入場。午後零時半に真紅のジャケットの全米軍が入場すると大拍手。ベーブ・ルースを始め世界的に有名な選手達が目の前にいるわけですから、まさに会場は興奮のるつぼでした。当日の新聞によると、「野球戦そのものは東京相撲と田舎相撲以上のハンディキャップはいなめず」「ファンの関心は練習に集まり」とあります。 |
午後2時、斎藤富山県知事(投)と金山富山市長(捕)の始球式を終えると、日本先攻で試合開始となりました。1回はどちらも無得点、ところが2回裏に全米軍は一挙に9点という大量得点を入れました。この回ベーブ・ルースも右翼越えの大ホームランを放っています。3回裏、今度はホワイトヒルが右翼観覧席へホームラン。4回裏、ここで投手は当時18歳の沢村栄治に交代しました。この後、沢村は打1本と単打2本に押さえるという大健闘をみせました。結局試合は14対0で全米軍の大勝!全米軍が放ったホームランはベーブ・ルースのものを含めて3本、それに対して全日本軍の放ったヒットは、新富と夫馬の2本だけでした。 |
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全国の都市で行われた日米野球戦は全米軍の全勝で幕を閉じました。日本は負けはしましたが、全国で野球戦を見た人々に多くの夢と感動を与えたであろうことは容易に想像できます。それは富山も例外ではないのです。 |
日米野球戦の翌月の12月26日、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」が正式に結成されました。現在の読売巨人軍です。当時人々を夢中にさせた野球は、現在でも多くの人気を獲得し続けています。 |
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空襲前の薬専正門 | ||
官立薬学専門学校は県立薬専が昇格することによって大正9年に開設され、新校舎は奥田に建設されました。設立資金はすべて地元負担(県・市・地元産業界有志)によって賄われました。しかし、昭和20年の富山大空襲によって校舎は焼失してしまいます。戦後、23年に再建され、翌年の学制改革によって富山大学薬学部へ移管されることになりました。 | ||
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旧薬専の門柱 広貫堂向かいの民家の片隅に建つ |
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