本丸の発掘
中世富山城の縄張りと堀の検出
(2003年度調査)

城址公園東側は本丸跡と呼ばれ、江戸期には藩主御殿が建っていた場所です。本丸中央には地下1mに江戸時代初期とみられる薄い整地層があり、その下に城を東西に分ける戦国期の堀跡が存在しました。この堀は南北方向に延びており、正確な規模は不明ですが約20mの幅があったと思われます。

堀には、東側から多くの廃材が投げ捨てられていました。かわらけ(素焼きの皿)、木材、さまざまな穀類(コメ・コムギ・オオムギ・ヒエ・アワ・マメ・ソバ等)、石などがありました。これらはみな焼けており、大規模な火災の残骸を堀に捨てて片付けたものとみられます。その年代は土器の形からみて西暦1550年から1575年頃と推定されます。佐々成政が富山城に居城する以前の出来事であり、元亀3(1572)年の上杉による一向一揆勢の攻略、あるいはその翌年の城兵反乱などの記録に該当するのかもしれません。その後この堀は土を盛って完全に埋められました。
 
本丸の堀跡
本丸の堀跡

本丸の北を流れる松川はかつての神通川で、当時の川幅は200mもありました。江戸時代にはそれに面した本丸縁に土塁が設けられていました。この土塁の下に東西に延びる戦国期の堀を確認しました。堀の岸は約60度の急傾斜があり、敵が侵入しないよう防御性を高めたいわゆる薬研堀です。この堀も本丸中央の堀と同様人工的に埋められ、その上に土塁が作られました。

南北の堀より東側は、戦国期富山城の最も重要な場所「本丸」にあたるとみられます。ここは周囲より一段高い場所だったと考えられます。発掘ではここの土を鍬で掘削して持ち去った跡が見つかり、当時の地表面には無数の鍬先の痕跡が残っていました。城址公園西側の「西の丸」と呼ばれる場所で見つかった整地跡からは、ここから運び去られたものと同じ土が出ていることから、本丸を削った土は城内各所の整地用に使われたと推定されます。

このように、戦国期富山城の構造は、江戸時代の城の構造と異なっていたことが発掘によって明らかにされました。まだ全体の規模や構造解明までには至りませんが、今後調査が進めば、土塁や石垣はあったのか、どのような建物があったかなどが次第に明らかにされるでしょう。

佐々成政が秀吉に降った天正13(1585)年、開け渡された富山城は、秀吉の命令によって「破却」されることとなりました。具体的な指示の内容はわかりませんが、2か所の堀で確認された堀を埋める行為は、破却の状況を示していると考えられます。他の城で行われた同様の破却行為は、石垣を崩したり堀を埋めたりして、軍事施設として二度と利用できないよう徹底的に行われたといいます。

こうして城としての機能を失った戦国期富山城は、やがて秀吉の腹心前田利家が支配することとなり、その子利長が今に見る江戸期富山城とその城下町の整備に着手していったのです。
(古川)