本丸の発掘
戦国時代の陶磁器(2003年度調査)

発掘では戦国期の様々な出土品がありました。それらは当時の人々の生活を克明に物語ってくれます。

生活容器には土器、陶磁器、漆器、金属容器があります。木が豊富な富山では当時多くの漆器容器が生産・使用されました。佐々成政が拠点とした白岩川沿いの小出城(富山市水橋)では、堀から大量の漆器が出土しました。このことから当時の食器は土器や漆器が主流であったことがわかります。富山城は高台にあるため、有機質の漆器は腐食して残っていませんでしたが、遺跡の土を洗ったところ、数ミリの赤い漆膜が数片見つかり、ここでも漆器が使われていたことを裏付けました。濠の水中に捨てられていたら、もっと多くの漆器が見つかったことでしょう。

土器の多くは、即席作りの素焼きの皿で、かわらけと呼んでいます。この土器はもともと奈良・平安時代の菜を盛り付ける素焼きの皿の系統を引くもので、武士の治世になると酒盃用に特化されたものです。日々酒を酌み交わすほか、戦勝の祝杯、出陣の際別れの水杯としても使用されました。太田本郷城(富山市太田南町)では堀の底から200枚ものかわらけが出土しました。完全な形のものも割れており、内1点には「人々同門・・八月卅日の・・」という句が墨で書き付けられていました。達筆すぎて解読不能ですが、出陣の際に辞世の句を詠んだものでしょう。このような例は出陣の際の水杯の儀式を考えてよいでしょう。

富山城本丸の戦国期堀に捨てられていた多量のかわらけはすべて割れており、完全なものは1点もありません。火災後他の残骸と一緒に捨てられたようですが、まとまった数があることからみて、あるいは太田本郷城と同じような状況が想定できるかもしれません。

かわらけは一度に大量に製作します。かつては轆轤を挽いて作っていました。かわらけは儀式の後に捨てたり割ったりすることが多いため、製作時間を短縮するため戦国期の人々は工夫を凝らしました。それで編み出した方法は、すでに焼き終わったかわらけの内側に粘土を押し付けて基本形を作る型押し技法です。熟練すれば完成までに数分とかからないでしょう。その証拠にかわらけの底には型押ししたときの粘土のシワが残り、また粘土には、焼き上げる時割れにくいよう、ベンガラ(酸化鉄)・雲母(きらら)等を砕いて混入してあります。

このかわらけは、酒を入れる酒盃の用途だけでなく、当時の灯明(照明具)としても用いられました。動植物性油を入れ、縁に灯芯を差し込んで火を灯します。

かわらけは地域や年代によって多少形は異なりますが、富山城では他で見られない特殊な形のものがあります。直径わずか5cmの椀形で、合わせ口があり蓋が付いていたとみられます。用途は分かりませんが、磁器製の合子ごうすの形に近い。合子は香を入れ焚く容器で、富山城出土のものはそれを真似て作ったものでしょうか。
(古川)
かわらけ
かわらけ
特殊な小形かわらけ
特殊な小形かわらけ