【富山之記にみる中世富山城】4


戦国期の城下町は、一般に馬廻衆などの直轄軍や支城主が重臣として集住しており、下級武士は本拠地に在郷していました。また、城下町内部には百姓地が混在していました。

「富山之記」では、有力な武将は主要な出入口に配備され、下級家臣もすべて武家屋敷に集住していると説明され、百姓地の混在に関わる情報は欠落しています。また城下町の東南に七堂伽藍を備えた禅寺と坊寺が集住する、いわゆる「寺町」の形成があったことを説明しています。

前田利長が慶長10年に築いた城下町も、同じく東南に寺町を設けました。その構造は、北側に本願寺末と門前町を設け、南側に諸寺が混在しています。一向宗が大きく保護される構成となっており、禅宗が主体と述べる「富山之記」とは異なっています。寺院群の集合は戦国城下町においても認められますが、このような大規模なものではありません。

「富山之記」から復元される城下町は、武家地が囲郭され、下級武士も含めた全家臣が集住している姿であり、近世城下町の特質が表れているといえます。また寺町は慶長期と位置・内容が異なることから、成政の城下町整備が始まったとされる天正9年頃以降から、前田利長による城・城下町整備が開始された慶長10年以前までの間の姿を反映していると考えられます。
この間、天正13年には佐々成政の降伏と富山城破却、慶長4年に前田利長居城など大きな転機が生じました。このとき城下町の改変があったのかどうかは、史料がなく不明ですが、城下町居住者にとっては政権交代による大きな社会的変動であったと思われます。

このような状況において、神保氏の治世を賛美し回顧する「富山之記」の内容は、神保氏の時代を懐かしんで古往来として残したとも考えられます。しかし「富山之記」は、前田氏の支配した越中や周辺地域では見つかっておらず、越中から遠く離れた仙台の地で複数発見されています。越中ではその存在が存続できなかったことを意味するのでしょうか。

「富山之記」では、当時の神通川は「西」を流れていたと表現しています、これをどう理解するのか、当時の地理復元も大きな課題といえます。

(古川)
神保期富山城下町復元案

図4 神保期富山城下町復元案