船橋常夜灯
(2)常夜灯じょうやとう寄進の背景

船橋常夜灯2基の寄進は、竿の銘文により寛政11(1799)年初春に同時に行われました。
寄進者は、船橋向かいにある手傳町てつだいまち在住の富山町町年寄、内山権左衛門逸経です。権左衛門は寛政6年町年寄となり、寛政7年神通川出水の手当の際本陣を勤め、寛政12年には藩主から帯刀を認められました。文化元(1804)年勘定所支配、文化4年町頼母子方調理上役、その後町奉行所下役小目付を務めました。文化4年には、船橋に渡していた3枚の板を5枚に増やすことを藩主が命じたとされます。

常夜灯の竿には、左岸側「両宮りょうぐう伊勢太神宮」、右岸側「金毘羅こんぴら大権現」と彫られています。この銘文により、左岸側常夜灯は伊勢信仰に基づくもの、右岸側常夜灯は金毘羅信仰に基づくものであることがわかります。

伊勢神宮(内宮・外宮の両宮)への参詣、いわゆる伊勢参宮は、一生に一度は行うものとして流行しました。参宮者数は享保年間頃(18世紀前半)にピークを迎えました。富山城下町には、伊勢参宮の便宜を図ったり、伊勢講の世話を行い、伊勢信仰を普及する「伊勢御師いせおし」が藩の拝領地に旅屋を構え、そこを拠点に活動していました。城下町絵図によれば、三日市与三大夫など6人の存在が確認できます。
富山藩でも藩主の代参が何回か行われ、藩士の希望も多かったため1回に3人までと制限したほどでした。

一方、金毘羅信仰は、水難守護神として広く水産・水運関係者から信仰され、流行しました。特に金毘羅燈籠と呼ばれる常夜灯の寄進が流行し、深い信仰を示したものと理解されています。

寛政7年の神通川洪水で船橋が壊れ、その修理にあたって権左衛門が本陣を勤めました。寛政10年には15人扶持となっており、これはその功績によるものと思われます。その翌年常夜灯を寄進していることから、藩主から15人扶持を与えられたことに対しての感謝の意を表すとともに、船橋に特に深い関係にあった権左衛門が、水難守護神である金毘羅神を特に信仰し、当時伊勢参宮・金毘羅参詣者が船橋を渡る機会が増えたことで、その通行客の道中の安全をも祈願したと考えられます。

(古川)