Q.1早月川からどうやって大きな石を運んだのですか?
A 大阪城にある百トンをこえるの巨石(蛸石たこいしなど)は、筏で運んだという姿が復元されています。これは瀬戸内海の島の石を切り出したために海路を使ったものです。
早月川ではおそらく中から上流で石を割ったと推定されますが、具体的な場所は不明です。川の中の石を選んでいるので、洪水などで痕跡が失われたようです。
川を使っていることから、川から筏に積んで川下りし、富山湾にでて神通川河口から城へ向かうといったことが想像されがちですが、2つの理由で困難であったことが推定されます。

早月川は、常願寺川と同様、渇水期には水がほとんどありません。また、水位が浅く、筏を安定して河口まで荷物を積んで下ろすことは困難とみられます。特に6トンもある巨石となりますと、筏の上には置けず、下に吊り下げることになります。最短でも3mの深さが常時必要になるので、現在の早月川をみる限り、そのような条件は備えていません。すぐに座礁ざしょうすることになります。

2 これらの石割作業は、加賀藩の石垣専門石工(金沢穴生あのうといわれる石工職人)が行いました。彼らは、金沢城石垣を築く際、石を7km離れた戸室山とむろやまから切り出し、荷車に載せて山道を降り、川を渡って金沢城まで運びました。起伏のある地形を陸路を使って運ぶことには慣れていたようです。早月川から富山まで実に20km以上もの遠い道程がありますが、このような熟練からみて、陸路で運んだ可能性が最も高いと考えられます。金沢城で石曳道いしひきみちなどの伝承が残り、石を曳いて川を渡る際に行われた祭りが後世まで伝えられえました。しかし富山では残念ながらそのような伝承は残っていません。
ただし、富山城には、氷見・高岡の海岸部に産出する「大田石・岩崎石」(石灰質砂岩という岩石。高岡の義経よしつね雨晴岩あまはらしいわなど)が石垣石材として、海路で運ばれていました。したがって海路という方法が全く考えられないわけではありませんが、1のような条件からみて、陸路と考えたほうがよいと考えられます