Q.2高い石垣をどうやって積んだのですか?
A 現在の富山城の石垣は、堀に面しているところで最大高さ12.2m、陸上部では5.5mくらいの高さがあります。このような規模は、江戸時代には一般的、もしくは低い部類に入ります。大阪城では30mもの高石垣が存在し、最も高いものです。

富山城を最初に作った前田利長は、父前田利家から、金沢城に高い石垣を築くよう命令を受け、挑戦しましたが、何度やっても崩れてうまくできなかったといいます。

それほど高い石垣を築くことは、特殊な、高度な技術が必要でした。城の石垣を築く専門の石工は、「穴太衆あのうしゅう」と呼ばれ、各地の大名に抱えられました。もともと近江(滋賀県)穴太村出身の石工が中心で、その家系の一部が加賀藩に抱えられ、「金沢穴生あのう」となったわけです。

現代の石工さんに石垣を積ませると、約2mまでは誰でも積めるが、それ以上になるとうまくいかず、ほとんど崩れてしまうといわれています。ですから、大きなふるい家の周りに石垣を積んであるものを見かけますが、それらはだいたい2m以下で、それ以上のものはコンクリートで固めたり、鉄筋で補強してあることで高くできているわけです。
石垣はよく見ると、断面が台形ではなく、両側が弓なりに反っています。これは「り」といい、勾配(斜面の角度)と高さを緻密に計算して算出されたものです。物理学・数学・土木工学などを駆使した当時の最高技術といえます。したがってこれらの計算公式は秘密とされ、「秘伝書」として代々伝えられました。金沢にはこの秘伝書が現存しており、富山城石垣の研究にも役立っています。

技術的には、石垣の内部は、中心に土台となる土の堤防があり、その外側に石をおきます。見えている石垣の石は、幅50cmほどですが、奥行きは1m以上もあり、見えない内部が大部分を占めます。石と堤防のすき間には、こぶしほどの川原石が大量に入れられています。これが排水の役割をするとともに、地震などで石が大きくずれるのを防ぐクッションにもなっているわけです。石垣の解体や積みなおしの調査では、石垣が崩れないようにさまざまな工夫が施されていることがわかり、高度な技術に感心されます。