石垣の歴史

神保氏や佐々成政が居城した戦国時代の富山城には石垣が存在せず、土塁という土の築山が巡っていたと考えられています。江戸初期の往来物「富山之記」には、「築地の上には壁を塗り、外をうかがうための穴がある。」とあり、その様子が描かれています。

成政が秀吉に降伏した後、秀吉の命により富山城は取り壊されました。代わって新しい富山城を築城する役目を申し付けられたのは、前田利家の子利長です。利長は慶長2(1597)年いったん富山城に入るものの家督相続のため金沢へ戻り、慶長10年隠居して富山に戻ってから本格的な城と城下町の整備に着手しました。

まず城の縄張を決め、石の見積もりを出させ、必要な木材を県境の飛騨横山に手配しました。そして若狭・越前の大工を呼び寄せ、不足する木材は能登羽咋市周辺から補充したことが記録に残っています。加賀前田家の総力を挙げての城づくりがここに始まりました。

そのことは現在残る石垣からも知ることができます。石垣の中には2mを超える巨石が6個も配置されています。この巨石は「鏡石」といい、城主の武力・財力を誇示するために用いたとされています。

このように、富山城の初期石垣の築造は、加賀前田家の財力を背景とした前田利長によって成し遂げられました。しかし2年後城は大火で焼け落ち、利長は高岡城を築城して移り、城は荒廃します。

その後、富山藩分藩にあたり、加賀藩主前田利長の子利次が初代藩主となりました。利次は百塚(富山市百塚、呉羽山丘陵北端)に築城を計画しましたが、測量の結果不適とされ、加賀藩配下にあった荒廃した旧富山城を借城し、改修して富山藩の城としました。

しかし万治2年の地震で石垣は崩壊し、翌年から改修整備が始まりました。

大掛かりな改修は、万治4年の築城下知以降、寛文元年から開始されたとみられます。築城下知書に石垣改修に関する具体的な内容はありませんが、大手筋鉄門石垣通路を布積に変更したのは、この時期とみられます。

これ以後、富山城はたびたび地震・大火・洪水などの天災に見舞われ、財政の逼迫とともに十分な石垣改修ができないままとなったとみられます。

安政5年の飛越地震での災害はひどく、石垣はところどころ崩壊し、大手土橋は崩れてしまったことが『地水見聞録』に描かれています。

その後は、明治以降のハバキ石(玉石積)の設置、昭和29年の富山産業大博覧会の際の工事での積直しなどにより、石垣は大きく姿を変えてしまいました。
(古川)