慶長期石垣の復元
正保絵図から

正保城絵図の写し図と評価される「越中国富山古城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)は、前田利長が築いた慶長期富山城が慶長14年の焼失後放置された状態で存在したことを示す図とされます。

この絵図では、本丸大手枡形石垣(後の鉄門石垣)は、L形の石垣と直線石垣を組み合わせて枡形虎口としています。石垣の細部を見ると、この石垣の先端部分は2か所ともに斜めの凹凸のある線となっており、石垣天端が崩れた様子を表現しています。石垣には「崩石垣高三間」「崩石垣三間」と記入しており、石垣の高さが3間(5.4m)あったことがわかります。同じような表現は、二の丸の石垣2か所にも認められます。

一方搦手の石垣は、2本の直線石垣による喰違虎口としています。石垣内には「二間」と記載されており、石垣の高さが2間(3.6m)あったことを示しています。大手枡形石垣より1間(1.8m)低い石垣です。この石垣の表現をみると、大手枡形石垣の表現と同様、片方が斜めに崩れたような描き方になっています。しかしその部分の描き方は、大手枡形が凹凸のある1本の線で表現するのと異なり、二重線により天端を描き、またその線は凹凸がほとんどないことから、崩れていない状態の石垣と理解したほうがいいかもしれません。
越中国富山古城之図にみる搦手石垣の表現
越中国富山古城之図にみる搦手石垣の表現
先端を先細りにする石垣の表現は、同じ正保城絵図である「備前国岡山城絵図」(国立国会図書館内閣文庫蔵)の本丸枡形石垣でも認められます。この図の場合は、先端を切り落とさず三角形状に尖らせておりやや異なりますが、いずれも斜めの線が強く意識されている点で共通しています。「備前国岡山市城絵図」の描き方からみて、この斜めの線は櫓の端部から地面に向かって広がっている表現であることから石垣隅石の稜線ラインを描いたものとみられます。「越中国富山古城之図」の緩いカーブは反りをもった石垣隅石の稜線を表現したものとも見えますが、高さが2間と低いため、誇張されたとみられます。

今まで、「万治四年年築城下知書」に示された「石垣四ヶ所崩候ニ付築之事」という記述は、「石垣が崩れたままとなっており、本格的修復が行われていなかった」(富山市郷土博物館2005年)という理解でした。絵図の表現からみて、崩れた4箇所の石垣とは、二の丸枡形石垣2箇所、本丸大手枡形2箇所の計4箇所とみられます。搦手石垣が原形を保っていたとすると、築城下知書の内容と正保絵図の表現は、まさに一致することになります。

2006年の鉄門石垣解体工事では、土塁内部に古い栗石層が見つかり、この最上面が当時の地表から約2.6間の高さにあり、高さ3間に近似することがわかりました。これが慶長期の石垣上部の裏込栗石である可能性が高いといえます。
鉄門石垣の古期石垣痕跡
鉄門石垣の古期石垣痕跡
富山藩初期の「万治年間富山旧市街図」に描かれた石垣と細部を比較すると、寛文期の改修時には、石垣が大きく作り変えられたことがわかります。
(古川)