江戸時代編2

富山城は、神通川のほとりに位置し、洪水に見舞われることが多かったようです。記録に残るものが2回あります。このほか大火の類焼4回、地震1回があり、まさに天災の繰り返しの歴史だったと言えます。

発掘では、本丸で4回の大火跡を示す土層が確認されたほか、西の丸では江戸時代前期頃の木炭層が見つかりました。木炭層は厚さ20cmにも及び、大火で焼けた廃材を集積した場所であったと考えられます。この西の丸の木炭層が示す大火は、慶長14(1609)年、延宝3(1675)年、正徳4(1714)年のいずれかの大火跡と思われます。

本丸北部では2層の焼土層を確認しました。いずれの大火か判断できませんが、大火後に薄く盛土して整地していることがわかっています。

城内での暮らしぶりがわかる遺物として陶磁器類があります。西の丸の木炭層の直上からは、18世紀中ごろ以降の古伊万里や唐津、古九谷など高級な食器類がまとまって出土しました。当時県内で一般的に使われていた富山で製作された越中瀬戸焼や素焼きの皿はほとんどありません。このことは城内での生活がかなり豊かであったことを示しています。

本丸北側の堀は、江戸後期の絵図では堀幅が最大12間(21.6m)とあります。試掘では堀と神通川を隔てる築堤部が検出され、堀の幅を確認することができました。

築堤には大きく3期の変遷があります。当初の築堤は堀幅は12間でしたが、その後上に盛土したため堀幅は11.5間に縮小しました。この際、堀端には砂利を敷き、幅3尺の道が作られました。その後さらに盛土して築堤を高くし、幅1間半(2.1m)の砂利道になりました。2期及び3期の築堤修築は、いずれも砂を被った直後の改修であることから、洪水によって砂で埋まったことが改修の要因とみられます。洪水の記録は天和2(1682)年・天明3(1783)年・寛政7(1795)年の3回があり、そのうちの2回の痕跡と考えられます。
築堤の構造模式図
築堤の構造模式図
また、安政5年の大地震では、大手土橋、二の丸二階御門石垣、大手升形石垣が崩れたことが「地水見聞録」に描かれています。その後の修復は、積み直しをやめ、「ハバキ石積」という土留め工法によって修復する方式とされました。 ハバキ石
ハバキ石
(古川)