江戸時代編1

現在私たちが目にする富山城天守閣は、昭和29年の富山産業大博覧会にあたって建築された模造天守で、江戸時代に作られたものではありません。江戸時代の富山城に天守閣は存在したのか、今もって分かってはいません。本丸の南東隅、城址公園東側の地下駐車場入口付近にあった土塁上に天守建築が計画されたことは、寛文元(1661)年幕府が許可した改修計画に「天守」の文字が見えることから明らかです。しかし度重なる火災・水害・地震で疲弊した藩の財政状況を考えると、天守閣建築まで手が及んだかどうか疑問です。

その後の絵図や記録には天守の文字はなく、建物はあったようですが、幕末の建物取壊しの図面にも天守閣の建物は現れないことから、天守閣はなかったというのが現在の考えです。

江戸時代の富山城は、前田利長によって、慶長10(1605)年から本格的に城と城下の整備に着手したとされます。建物や石垣の見積を出させ、木材を県境の飛騨横山(現岐阜県飛騨市神岡町)に求め、さらに遠く羽喰山(現石川県羽咋市)からも調達しました。

城の中核的な郭は3つがあり、藩主御殿がある「本丸」、その西側には濠と土橋をはさんで「西の丸」が並び、この2つの郭を濠が取り囲んでいます。本丸の南側には「二の丸」が設けられ、二の丸と本丸は土橋でつながれていました。この二の丸の回りにも濠が巡っており、これらが城の中核部を守る内濠です。

これらの回りをコの字形に取り囲んで、「三の丸」があります。ここは家老や上級藩士の住まいや蔵・厩等が置かれました。この三の丸を囲んで濠(外濠)が堀り巡らされました。

城の中心部への入口は、まず二の丸西辺の二階櫓御門から二の丸内へ入り、土橋を通って本丸南の大手升形石垣の鉄御門を抜けて藩主御殿に至ります。裏門である搦手は、櫓門を出て東出丸へ入り、三の丸あるいは神通川べりへ抜けるルートとなります。主たる南側からのルートが正面となるので、南側が大手(正面)側となります。

富山城では、門がある部分のみ石垣造とし、その他の部分はすべて土塁を築き、板塀や土塀を巡らせていたようです。石垣部分は、敵が侵入しづらいよう、屈曲した通路とされ、これを「升形」といいます。本丸(大手)升形は内升形、搦手升形は外升形と型式が異なっています。

城の北側には旧神通川が流れており、城の北側の堀とは土堤で区切られていました。神通川の北岸から眺めるとまさに水の上に浮かび上がって見えたことでしょう。「浮城」と呼ばれたこともうなづけます。
(古川)