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昭和53年に遺跡の範囲を確認してから、現在まで何度か発掘調査を行っています。
これまで行った調査の結果をお知らせします |
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―昭和55年調査― |
第1号住居
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第1号住居は、北代遺跡で初めて確認された竪穴住居です。4.9m×4.3mの円形の住居です。
石組炉(中央に石で組んだ炉)があり、5本の柱で屋根を支える構造です。北西側には一段高いテラスがつくられています。
住居の中からは、縄文時代中期後葉(串田新式)の土器のほか、香炉様土器、ミニチュア土器、円板状土製品、三角とう形土製品が出土しました。 |
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―平成8年調査― |
第13号住居 |
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第13号住居跡は、遺跡整備に伴う発掘調査で確認されました。
耕作による撹乱で壁はわずかしか確認できませんでした。わずかに残った壁から全体規模を推定すると、住居は直径4.2mの円形状であることがわかりました。中央には石組炉が設けられていますが、石はすべて抜き取られていました。
7本の柱で屋根を支える構造でが並び、南壁側の柱脇の床面上には有孔鍔付土器が据えられた状態で出土しました。土器の中には半分くらいまで灰が入っていました。この住居が廃絶される際、土器に覆い被せるように炉の灰が捨てられたと考えられます。 |
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有孔鍔付土器 |
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第70号住居 |
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第70号住居は遺跡整備に伴う発掘調査で確認されました。
第1号・13号住居は円形で、石組炉が作られていたのに対し、この住居は6.0m×4.2mの楕円形で、住居の長軸上には円形に掘込まれた炉が2つあります。東側の炉はよく使用されて赤く焼けていますが、西側の炉はほとんど焼けていません。また西側の壁面付近には長い石が倒れており、もとは立てられていたものと推定されます。このことから、住居の西側半分は普段使う場所ではなく、祭祀を行うための特別な空間だったと考えられます。 |
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住居内からはたくさんの縄文土器などが出土しました(左下が北) |
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長軸に対し、左右対称に柱穴が並んでいます。
壁際の小さな穴は、壁に堰板をめぐらして、土が落ちてこないようにしていた跡と推定されます。
この住居が埋まっていた土は周辺の土とは違う粘土や土でした。このことから、屋根にのっていた土が落ちて埋まったと考えられます。
北代縄文広場の竪穴住居の屋根を土葺きに復原したのは、この住居がきっかけです。 |
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第1号高床建物 |
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第1号高床建物は、遺跡整備に伴う発掘調査で確認されました。
南側の農道の端にかかって、約3.2m四方に6本の柱穴を確認しました。このうち北東隅の柱穴掘り方の中ほどの深さのところから、焼けたナガスクジラの尾椎骨(平口哲夫氏鑑定による)片が出土しました。ナガスクジラ骨の出土は周辺地域では石川県能都町真脇遺跡(縄文時代晩期)で出土しているだけで、数少ない例として注目されます。
また、骨が出土したのは掘立柱建物の柱穴の中という特殊な状況でした。掘立柱建物を建てる際に地鎮祭祀的な祭りとして意図的に埋納されたと推測できます。 |
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ナガスクジラ |
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―平成10年調査― |
第76号住居 |
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広場の整備に伴い、遺跡南西部において調査を行いました。
新たに直径推定6mの竪穴住居跡1棟(第76号)を確認しました。住居は縄文時代中期前葉のもので、床は固く叩きしめられ、埋甕炉がありました。
埋甕炉は深鉢形土器の下半を使用し、底部を抜いて利用していました。甕の中には焼土・炭化物のほか、小石くらいの大きさの焼けた粘土のかたまりが多数入っていました。 |
この場所は現在「西の広場」となっています。 |
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