願海寺がんかいじ城跡じょうあと
(富山地域)
願海寺城跡は、富山市願海寺字舘本に所在する複郭の平城です。戦国時代に寺崎民部左衛門が居城し、天正9年(1581)上杉景勝方についた寺崎氏は、織田信長勢に攻められ落城したと伝えています(『上杉家文書』)。

願海寺城跡では、これまでに平成14年、平成16年、令和元年の3回発掘調査が行われています。
 
 
令和元年度の調査
令和元年5月から6月に行った発掘調査では、逆L字に屈曲する堀を検出しました。
検出した堀には新旧2時期があり、旧堀に沿って新堀が拡幅され、再掘削していたことが明らかになりました。堀の規模は、旧堀が幅約5.4mから7.4m、深さ1.9m以上の深い堀で、新堀が幅約9.0mから9.8m、深さ1.0mの浅い堀です。
堀の年代は、旧堀が出土炭化物の放射性炭素年代測定から15世紀前半から中頃と推定されます。新堀は堀底から16世紀前半から中頃の越前焼の甕が出土したことからその頃に掘削されたものと考えられます。
隣接する加茂社稲荷神社が本丸跡と伝承されており、今回見つかった新堀が本丸に伴う堀であったと推定されます。
令和元年度調査区遠景(北西から)   堀(上空から、上が北)
令和元年度調査区遠景(北西から)   堀(上空から、上が北)
 
 
平成14年度の調査
平成14年度調査区は、令和元年度調査区の南東約100mに位置し、平成14年8月から9月に個人住宅建築に伴って発掘調査を行いました。
平成14年度調査区 堀(南東から)
平成14年度調査区 堀(南東から)
発掘当初は、検出した堀を深浅2段の堀と推測しましたが、令和元年度調査同様に15世紀代の深い堀に沿って浅い堀が16世紀代に再掘削された、新旧2時期の堀とわかりました。堀の規模は、旧堀が幅約3.0mから4.0m、深さ0.9mから1.0mで、新堀が幅約11m以上、深さ0.15mから0.20mです。旧堀には幅0.5cm・幅1.5mの2本の土橋が伴います。
堀から出土した木簡(表)   堀から出土した木簡(裏)
(表)   (裏)
堀から出土した木簡
新堀から表裏に文字を墨で書いてある戦国時代の木札が出土しました。表裏ともに「多て」(≒「館」)の文字が見えます。館あるいは城を意味すると考えられます。
 
 
願海寺城には前身となる施設が存在か
中世には、願海寺地区は、越中射水郡倉垣荘の荘域にありました。倉垣荘は各村に加茂社を置いているのが特徴であり、倉垣荘・寒江荘にある加茂社には、対角線上に神宮寺が設置されるとされています(松山2009)。願海寺地区の加茂社である加茂社稲荷神社にも神宮寺が存在したとすれば、令和元年度地区で見つかった旧堀が神宮寺ならびに加茂社を取り囲んでいた堀であった可能性が考えられます。
また、寛永9(1632)年に書かれた『源畠山吉益系圖』には、越中守護・畠山満家の三男・持富(?−1452没)が願海寺を領知していたと記されています(羽曳野市1991)。15世紀前半から中頃に持富が願海寺を領知していたなら、在京していた持富に代わり国人領主が願海寺を治めていたものと推測されます。このことから、旧堀がその国人領主の居館の堀であった可能性も考えられます。
寺崎氏が願海寺城を築城する以前には、このような前身となる施設があったことが想定されます。
 
 
参考文献
 
羽曳野市 1991 『羽曳野資料叢書 第三巻 畠山家文書集』
 
松山充宏 2009 「宗教装置が構築する景観 -越中に移入された洛北-」 『越中史壇』第160号 越中史壇会
 
 
関連項目
  富山市考古学NOW「金粒子付着椀型坩堝」(戦国時代)
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
  富山市内遺跡発掘調査概要5   富山市内遺跡発掘調査概要10   富山市願海寺城跡発掘調査報告書
  富山市教育委員会 2003
『富山市内遺跡
発掘調査概要X』
  富山市教育委員会 2014
『富山市市内遺跡
発掘調査概要]』
  富山市教育委員会 2020
『富山市願海寺城跡
発掘調査報告書』