笑顔のお裾分け 2021年6月5日

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ページ番号1002968  更新日 2023年1月6日

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4月の肌寒い夜、仕事を終えて帰宅すると玄関先に立派なタケノコが置いてあった。ご近所からの「お裾分(すそわ)け」である。かつての典型的な農村であった自分の住む地域には、今でもお裾分けの風習が残っている。お祝い事の饅頭(まんじゅう)や蒲鉾(かまぼこ)、旬のタケノコや栗の炊き込みご飯、漬物を頂いたりもする。時には母や妻がご近所にお裾分けしたりする。

「お裾分け」には、「裾=端っこ=不要なもの」つまり、「つまらないもの」を他人に与えることから目上の人に対しては失礼に当たるという意味もあるようだが、一方で、おめでたいお祝いの品や利益の一部を知人や友人に分け与えることから「お福分け」とも言うらしい。「お福分け」であれば失礼に当たらないとのことだが、いずれにしてもお裾分けは、人々を温かい幸せな気持ちにしてくれるのである。

私の少年時代には、「お裾分け」のほかに、ご近所での「もらい湯」や衣服の「着回し」、米や味噌(みそ)の「貸し借り」の風習もあったが、今はほとんど無くなった。地域の繋(つな)がりの中で、近所の子どもたちは兄弟同様に育った。物質的には貧しかったが、みんなの心は豊かだったし、時間はゆっくりと流れ、いつも笑顔があふれていた。今はボタンを押せばお風呂が沸き、衣服は使い捨て、近所にはコンビニがあり実に便利だ。

一方で、この便利さが、地域の繋がりや日本人が持っていた「向こう三軒両隣」の精神を希薄化させたとしたら実に皮肉で寂しいことだ。しかし、よくよく考えるに、必要なモノやサービスを必要に応じてシェアする昨今流行(はや)りの「シェアリングサービス」なるものも、「お裾分け」や「向こう三軒両隣」の精神そのものだとも思うのである。

以前、「近代日本の歴史は文明を得て文化を失った」という酷評を目にしたことがあるが、もちろん私たちは、日本人にとって本当に大切であった人々の「心の繋がり」や「助け合う心」を、近代化の過程で失ってきたことを知っている。

それらを取り戻すために昔の生活に戻ることがナンセンスであるならば、せめて職場や友人、地域の皆さんには「笑顔」で接しようと思う。「笑顔」は人々の心を通わせ、家族や地域を明るく幸せにしてくれる。

しかも嬉(うれ)しいことに「笑顔のお裾分け」は無料であり無限なのである。

コロナ禍で人々が疎遠になりがちな今だからこそ、毎日の「笑顔」を忘れずに、地域のあたたかい繋がりを育んでゆくことを心から願うのである。

写真:産湯の様子
近所の子どもたちに見守られて産湯につかる赤ちゃん

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