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佐々成政攻めに関係した城郭の位置 |
天正13年(1585年)、前田利家は、富山城の佐々成政を攻めるため、呉羽丘陵最高峰の城山山頂に白鳥城(富山市吉作)を整備し、羽柴秀吉の本陣としました。そして、その支城として家臣に守らせたのが安田城と大峪城(富山市五福)です。
佐々攻めの陣営となったこの3つの城は、敵対する富山城と井田川を挟んで対峙するように配置されていました。安田城からは、白鳥城が2km、大峪城が2.8km、富山城が4.7kmの位置にあります。 |
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白鳥城については、最近の研究成果によって、成政は戦わずして降伏したため、秀吉は芹谷野からそのまま富山城へ入り、数日後、城の破却を命じて、フサク山(白鳥城)へ行き、数日逗留して帰ったことが分かっています。
また、白鳥城には前田氏家臣の岡嶋一吉と片山伊賀が拠っていましたが、のちに岡嶋は安田城へ、片山は大峪城へ移ったといいます。 |
安田城本丸から白鳥城を望む |
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安田城の本丸と大峪城の2つの曲輪は、利家によって同時に築城・改修されたとされており、これらは四角い形をしています。こうした方形曲輪を用いた城は、当時秀吉が最新の城郭として築造中であった京都聚楽第が典型的なものでした。
秀吉方の最前線拠点となった2つの支城は、最新の築城知識をもった前田氏によって、富山県で最も早く採用された聚楽第型城郭だったようです。 |
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【参考文献】 |
古川知明 |
2007年 |
「慶長期富山城内郭の系譜-越中における聚楽第型城郭の成立と展開-」『富山史壇』第153 越中史壇会 |
萩原大輔 |
2010年 |
「天正年間中期の富山城」『富山史壇』161 越中史壇会 |
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安田城跡から白鳥城跡へのルート図はこちら!(PDF、452KB) |
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