【富山之記にみる中世富山城】3
武将の配置

次に武将の配置が説明されます。その位置は「○○口」という名で3ヶ所示されます。これは出入口を意味しますが、城郭の城門というより、城郭外側を取り巻く武家地(総構)の出入口と理解できます。

「東勝寺口」、次に「礒部口」、付訓はイソベクチ(東北大本)で、最後は「藤井口」、付訓はフチ(イ)クチです。

この固有名詞を現在の地名と比較すると、礒部は、現在の磯部町と同じ発音であることから、富山城の西にある磯部と考えられます。あとの2つは地名が残っていません。したがってそれらをどの方位に置くかが問題になります。

手掛りの一つは、当時の順序の表記方法です。複数地点を方位順に列記する場合、その順番は、東→南→西→北の順となります。東が大手なので、次の東勝寺口は南、次の礒部口は西、最後の藤井口は北に置かれるということになります。

次の第19節には城下町の範囲について説明されます。「上者金屋〔之〕渡下者鼬河迄〔?〕一里之間」に軒が並び、「又鼬〔河之〕河原拵馬場毎朝有馬責〔呵〕之会」。上は西の金屋(現富山市金屋)の舟渡場から、下は東の鼬川までが城下町の東西範囲であることを示しています。金屋の舟渡場の位置は、呉羽山丘陵麓の井田川左岸沿いの金屋集落付近と推定されます。『越中地誌』には「金屋村カネカカリノ瀬ト云所マテ舟着タルヨシ」とあり、金屋のカネカカリの瀬と呼ばれる場所に舟渡場があったとしています。この金屋・富山城・鼬川を結ぶラインが、戦国期におけるメインルートして示されているわけです。

富山城東端の鼬川の河原には、馬場が置かれ、毎日馬術教練が行われたとあります。この馬場は桜馬場と呼ばれ、佐々成政の築造になるという伝承もあります。しかしこの桜馬場は前田利長が慶長10年に築造したものと推定され、また佐々期における鼬川の主流路は、現在の鼬川流路より西側に存在したと推定できるため、佐々期の馬場は利長期の桜馬場より西に存在したとも考えられます。 
(古川)
富山之記の示す城下町の東西復元図
図3 富山之記の示す城下町の東西復元図