考古学から見た近世富山町の食文化
 
近世考古学と食文化研究
近年、各地の江戸時代の城下町遺跡では発掘調査が進み、文献史料ではあまり明らかでなかった人々の暮らしぶりが解明されつつあります。特に食文化の面では、意識的に記録されにくい普段の食生活や庶民の食文化についての情報が蓄積されてきており、近世富山町においても例外ではありません。
 
近世富山町の発掘調査は、これまで近世富山城南部の家老・重臣級武家が暮らす外堀内側の城内の武家地や中・上級武家が暮らす外堀外側の城外の武家地、背割下水南側の町人地を中心に行われています。これまでの富山城、富山城下町の調査で出土した資料のうち、食文化に関わるものとしては、当時の食べかすである動物や魚の骨・貝殻、種実類のほか、食器類、料理道具があります。 

これまでの近世富山城・城下町の主要な発掘調査地点
 
近世富山町から出土した食文化関連遺物
(1) 動物の骨・貝殻
  動物の骨・貝殻については、主に町人地から出土しており、城内を含む武家地からの出土は極めて少量です。
出土した骨・貝殻の組成を見ると、食用と考えられるものは、貝類ではシジミ類、イワガキを中心とするカキ類、魚類ではマダイ、タラ類、鳥獣類ではカモ、キジ、イルカが多く出土しているほか、様々な種類の動物が出土しています。現在では越中鰤(えっちゅうぶり)として富山の特産品となっているブリはあまり出土していません。特にシジミ類、イワガキ、マダイ、タラ類が多く出土しています。また、出土したイヌ、ウシは、肉を取った痕跡が見られる資料があり、食材や薬の素材としてその肉が利用されていた可能性があります。

動物の骨・貝殻の出土状況(出土点数を基に集計、食材としての格は『黒白精味集』より)
 
(2) 種実類
  種実類については、町人地、武家地ともにウリ類が特に多く出土しています。これ以外は、果物ではウメ、モモ、スモモ、アンズ、エノキが、野菜ではカボチャ、ナスが、調味料ではサンショウ、トウガラシ、シソ・エゴマ類が、穀類ではイネの他、ヒエ、オオムギ、ソバが多く出土しています。また、武家地においてウリ類を除く果物類、野菜類とヒエ等の雑穀(ざっこく)類が少ない傾向にあります。 

食用となる種実類の出土状況(出土点数を基に集計)
 
(3) 食器類
  食器類については、町人地、武家地ともに碗、皿、鉢が多く、(つき)類や(びん)類は少ない傾向にあります。また、碗については茶道に用いられる天目茶碗(てんもくちゃわん)の出土が城内の武家地に偏り、鉢については、町人地で出土比率がやや高い傾向が見られます。

食器類の出土状況(出土点数を基に集計)
  これらの内、出土量の多い陶磁器製の碗、皿、鉢について、その口径を出土地点ごとに比較してみると、特に皿について城外の武家地は町人地と比較して大型品が少ない傾向が見られるほか、城内の武家地では小型品を主としつつも、直径30cmを超えるような大型品が見られ、2極化する傾向が見られます。また、鉢については、町人地、城外の武家地では、小型品から大型品まで比較的まんべんなく出土していますが、城内の武家地では20cm以上のものが多くを占める傾向が見られます。

 
     

  出土した碗・皿・鉢の口径の組成
(出土点数を基に集計) 
 
(4) 料理道具
  料理道具については、町人地、武家地ともに擂鉢(すりばち)(つぼ)(かめ)が多く出土する点で共通しますが、町人地では壺が、武家地では(なべ)類が目立ちます。また、武家地では焜炉(こんろ)風炉(ふうろ)といった座敷で鍋を温めたり湯を沸かしたりする際に使う道具である火処(ひどころ)類の出土が見られます。特に武家地で鍋(なべ)類と火処類が目立つ点は注目され、茶道だけでなく料理を食べる場で鍋を温めるような食事が武家で行われていた可能性があります。

料理道具の出土状況(出土点数を基に集計)
 
近世富山町の食文化
まず、出土した骨・貝殻について、出土資料の傾向を江戸時代中期の料理書『黒白(こくびゃく)精味集(しょうみしゅう)』の食材の格付けと比較すると、格付けで「下」とされるものから「上」とされるものまで幅広く出土しており、特に「上」とされるものが多く出土しています。
 
また、種実類については、資料数が少なく、資料採取方法の違いによる偏りが大きいため、単純に評価することはできませんが、ウリ類の多出は注目されます。出土した野菜、果物類の面から近世富山の食文化を特徴づけるものとして、ウリ類の多用を上げることができるでしょう。
 
食器類、料理道具については、碗、皿、鉢や擂鉢(すりばち)が組成の多くを占めます。碗、皿、鉢を用いて食事が提供され、また擂鉢を用いた練物(ねりもの)()え物等がよく作られていたことがうかがわれます。
 
以上のことから、特に江戸後期の富山においては、シジミ、イワガキ、マダイ、タラといった上物の魚貝類やウリ類を用いた料理が碗、皿、鉢を用いて多く提供され、擂鉢を用いた練物や和え物等もよく作られていたと考えられます。
 
江戸時代には、武家や公家、町人といった様々な社会階層が存在しました。このような社会階層の違いが、どのように出土遺物に反映されているかという点については、これまでに、関西において、陶磁器、土器類の出土量や輸入陶磁器等の高級品の出土傾向に階層による違いが見られることが指摘されているほか、近世京都では、特に魚介類について住人の階層により利用されている種類が異なることが指摘されています。
 
近世富山町について、出土した食材の様相を見てみると、魚貝類、鳥獣類は、武家地の資料数が少なく住人の階層による違いは明確に捉えられませんが、種実類は武家地でウリ類を除く果物類、野菜類とヒエ等の雑穀類が少ない傾向にあります。骨や種実類は資料の大きさが小さく、地点ごとの資料採取方法の違いを加味する必要がありますが、この点については住人の階層差による食文化の違いを示す可能性があります。
 
また、食器類、料理道具については、大まかな器種構成の点で各地点とも大きく変わりませんが、大きさや火処(ひどころ)類の出土傾向と言った点で住人の階層による違いが認められます。特に食器類の大きさの違いについては、大きな器に盛られた料理を銘々で取り分けて食する庶民の食事のあり方と一人一人の食事が取り分けられた状態で提供される武家の食事のあり方の違いが反映されていると考えられるほか、武家の中でも城内に暮らす家老・重臣級の武士層は大皿や大鉢を用いて引き回しで料理を提供することがあったと考えられます。また、茶道に用いる道具である天目茶碗の出土が城内の武家地に偏る点は、家老・重臣級の武士層で茶道がより盛んであったことを物語るといえます。
 
この様に、階層差に注目して近世富山町の食文化を出土資料から見ると、資料の出土傾向に階層間の違いが見られ、特に食器類、料理道具で明らかです。近世富山町の食文化は、特にその調理方法、提供方法の点で階層ごとに異なったあり方を取っていたと考えられます。
(納屋内)