高岡城の系譜を探る

高岡城の系譜を考える上で、重要な要素としては次の2点があります。

A 築城者は、富山城と同じ前田利長であり、富山城の次に築城されたこと
B その基本構造は連郭式+梯郭式で、富山城と共通すること

富山城は方形基調の郭を配列することが大きな特徴で、その縄張り構造から、秀吉の聚楽第をモデルとした「聚楽第型城郭」と考えることができます(→慶長期富山城内郭の系譜を考える(1))。
高岡城も上に述べたように、基本的に富山城の縄張りを踏襲したものであることから、富山城と同じ聚楽第型城郭に位置づけることができます。

高岡城は、富山城の内郭構造を単純化したものと理解できますが、富山城と比較すると実質的な面積は大きくし、特に堀の構造は枝堀を各所に設けるなど細部構造を複雑化しています。

また、内郭入口にあたる二ノ丸の虎口は、富山城の場合枡形石垣+門を置くだけですが、高岡城では枡形入口を郭のように独立させています。このためここは後に鍛冶丸という名前が付けられ、郭として認識されるようになりましたが、縄張の上からみると、独立性の高い工夫された「通路」と理解するほうがよいといえます。この工夫により、敵の侵入数を減らし、攻撃しやすくなるというメリットが生じることになります。

高岡城は、富山城の不慮の焼失によって緊急に築造された城であり、富山城のように準備周到に計画されたものではありませんでした。このため築城にあたって、直前に築城した富山城の基本的な縄張りを踏襲したことは妥当な理由といえます。各郭の面積を広域化したこと、堀を広く取ったこと、堀の複雑化など富山城との大きな違いは、富山城焼失という痛手を受けて練られた「防火対策」の結果生じたものであると理解されます。
(古川)