寛文元年、富山城改修後の富山城下町の姿は、「万治年間富山旧市街図」と「御調理富山絵図」によって確認できます。
この時期には、城下町周囲に惣構が構築され、都市エリアが明確化されます。寺町の位置は、慶長期と同じ城の南東側ですが、構造はやや異なります。
第一に、北側の本願寺末寺東の末寺屋敷は、塔頭により小区分化しました。
第二に、南側の寺町は、その南に東西街路(南新町)が設置されて南限が決められ、その南に新たな寺町が設けられ、「新寺町」と呼ばれました。この結果寺町域は一気に3倍以上になりました。
第三に、新寺町は南北3区画、東西3区画の計9区画の正方形区画が計画され、街路は中央区画周囲を一周するように設置されました。
第四に、新寺町の寺院の約半数は法華宗で、新たに進出した法華宗を中心として構成されました。 |
(古川)
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万治絵図にみる寺町構造 |
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