絵図にみる城下町のようす
(2)寛文期城下町の武家地

富山藩が整備した寛文期の城下町は、それ以前の慶長期城下町をおよそ継承しつつも、改変された部分も多くあります。そのひとつが外堀外周の武家地です。

正保絵図では、三の丸を囲む外堀の外周には町人地(町屋)が置かれています。町屋の入口はさらにその外側を囲む街路に面しており、南側の街路は北陸街道となっています。町屋の背戸は外堀に面しています。

一方万治・寛文絵図では、外堀の外周には新たに街路が通され、外周の町屋であったところは二分されて、堀側は武家屋敷、城下町側は町屋に変更されました。武家屋敷は外堀外周の街路側が入口となり、武家屋敷と町屋の境には排水路(背割下水)が通されました。2006年の総曲輪地区の発掘調査では、この背割下水の一部が実際に検出されています。
慶長期の外堀外周(部分)
慶長期の外堀外周(部分)
  寛文期の外堀外周(部分)
寛文期の外堀外周(部分)

慶長期から富山藩政初期にかけて、城と町の境という重要なエリアである外郭外縁において、新たに武家地を置いたことには二つの理由が考えられます。

第一に、武家地で外堀外周を囲い込むことにより、城域の防御を強化したということです。これにより城内(三の丸)へは武家地を通過してしか入ることができず、攻撃の際にもこれらの武家地が外郭のさらに外側の防御ラインとなるというものです。

第二に、これらの武家地に配置された藩士をみると、馬廻組を中心に、大目付、目付、奉行、組頭など要職にある人物が多く存在します。このことから、実質的な役所的機能を外堀外縁に集約したとするものです。

富山藩政初期におけるこれら要所における変更は、藩政における行政的・軍事的インフラ整備の一つと考えることができます。
(古川)