石垣見学会から
(1)墨書「織部」と「たけいち

石垣石材に、人名とみられる「織部」と「たけ一」の墨書きが見つかりました。

「織部」の文字は、搦手南石垣東面中段の石材から発見されました。

織部は藩士とみられる人物の呼称で、文字の上には姓とみられる2文字の一部が残っていますが、その部分は後にゲンノウで割り取られたため、判読できませんでした。

「織部」という藩士は、前田利長に従って慶長10年富山へ来た加賀藩家臣に篠原織部、富山藩初期の寛永16(1639)年に丹羽織部(千石)、三宅織部(御小々姓)、江戸中期以降には岡崎織部義為、小塚織部、藤懸織部茂距(町奉行)、吉田織部、磯野織部らがいましたが、どの人物をさすのか、あるいはそのほかの人物か特定することはできません。

この織部は、石垣築造あるいは改修に携わった藩士の一人ではないかと推測されます。

同じ石材には、漢数字の「十」が「織部」の文字と同じ方向から書かれています。他の石材の墨書からこの漢数字は積直しの際の位置の覚えとみられます。文字の太さや筆運びからみて、この2種類の文字は別の人の手になるものと推定されます。

「たけ一」の文字は、鉄門石垣西面中段の石材から発見されました。自然面に書かれていますが、石割以前に書かれる墨書記号と異なり、石割後できた面にあわせて書いてあります。

「たけ一」も同様に名前とみられます。名字がないことから、扶持人石切より下位で、実際に石割・石積作業に携わった加工職人の名前と考えられます。

文字は太く達筆で、織部の文字と石面側から斜めに書いたとみられることから、石積みの途中で書かれたものと推定されます。

いずれも石垣の内部になる部分に書かれており、落書の類と考えられます。
(古川)
「織部」の墨書 「たけ一」の墨書
「織部」の墨書 「たけ一」の墨書
*写真はいずれも文字がよく見えるよう加工してあります。