富山城の時鐘

6月10日の「時の記念日」の正午には、神通川原で「ドン」の打上げ花火が上がります。これはもともと時を知らせる「時鐘」が富山城で撞かれていた名残といえます。

最初の時鐘は、寛文11(1671)年4月21日安養坊山で専用のものが鋳造されたという「吉川随筆」の記録があります。安養坊山は現在の呉羽山展望台付近をさします。

この時鐘は、12年後破損し、天和3(1683)年寒江自徳寺から鐘を借り出して来て代用しました。2代目の鐘は、それから3年後、藩主正甫公が金沢の名工釜屋彦九郎(宮崎義一、後の宮崎寒雉)を呼び、安養坊山で鋳造しました。この鋳造にあたり正甫公は、金銀を溶かし込んだり、完成した鐘と借出していた自徳寺の鐘と交互に撞いたりして、たいへんな力の入れようでした。

しかし正甫公はわずか5年でこの時鐘を改鋳します。元禄4(1691)年、3代目の時鐘が完成した夜、正甫公は曹洞宗から法華宗に改宗し、この記念行事として時鐘を新調しました。この頃正甫公は厄年に当たり、厄災から逃れたいという目的があったと思われます。

4代目の時鐘は天保6(1835)年に鋳造されました。この鐘は、明治6(1872)年の時鐘台取壊しに伴い西町辻に移転し、明治16年再び城内に戻って石垣の上に設置されました。しかし明治32年の大火で時鐘台は焼け落ち、時鐘も粉砕してしまいました。当時この壊れた時鐘は、正甫公が鋳造した金銀の入った時鐘(実際はそれから2回改鋳された4代目のもの)という風評が流れ、破片は略奪され無くなったという新聞記事があります。

明治32年まで石垣の上に存在していた写真が4枚現存します。それに写っている石垣の高さを基準にすると、4代目の時鐘の大きさは、直径90cm以上、高さ135cm以上に復元されます。

藩主祈願所であった富山市於保多町の於保多神社には、富山城の時鐘と伝える鐘が正甫公顕彰碑として奉納されています。しかしその鐘は、写真から復元した大きさよりはるかに小さく、鐘の各部分の文様は、宮崎義一や富山鋳物師が使用しない型式です。このことから於保多神社の鐘はどこかから取り寄せられたモニュメントだったことがわかります。
(古川)
於保多神社の富山城時鐘とされる鐘
於保多神社の富山城時鐘とされる鐘