江戸富山藩邸の暮らし・行事
大名の交際
 
大名家は、将軍との親疎(しんそ)、石高、居城、江戸城での席次、官位、出自などで示される家格(かかく)によって序列化されていました。幕府はこれらを巧みに用いて大名家の統制を行っていましたが、大名家同士においても、この家格に即した付き合いをしていました。
 
大名家同士の交際関係を示す言葉に、「両敬(りょうけい)」、「通路(つうろ)」、「不通(ふつう)」があります。このうち両敬とは、親戚・姻戚(いんせき)関係にある家同士が、相互の訪問・対応・文通などの交際において同等の敬礼を用いる間柄を指します。「通路」とは、両敬以外の儀礼にかなった対応をする間柄、「不通」は儀礼的な対応すらしない間柄でした。
 
富山前田家の場合、19世紀の江戸藩邸における勤務マニュアル(富山県立図書館所蔵、市川文書77「東都勤集録」)をみると、両敬は35家、両敬以外の付き合いの家は24家あることがわかります。このうち前者は藩主と姻戚関係のある家ばかりです。後者には遠い親戚や越後高田藩榊原家など近所の大名の他、江戸城柳の間詰めの大名が多くいました。
 
富山藩主の江戸城の詰席(つめせき)は、家督相続から1、2年の間は官位が従五位下(じゅごいのげ)であったので柳の間、その後従四位下(じゅしいのげ)(四品(しほん))に昇任すると国持大名と同じ大広間に移動しました。歴代藩主は例外なく四品に昇進しましたが、必ず柳の間詰めを経る必要があったため、わずかな間でも同席となる柳の間詰めの大名たちとも良好な関係を築いておかねばなりませんでした。
 
藩主の家督相続や昇任によって江戸城での詰席が変わると、同席大名を上屋敷に招いてもてなすのが通例でした。12代利聲(としかた)が柳の間詰め大名を招いたときに、給仕役(きゅうじやく)筆頭をつとめた山田方雄(やまだまさお)の記録(山田忠雄校訂『旧事回顧録』、1963年)や藩の記録(「嘉永七甲寅年正月ヨリ御廉々書上」富山県立図書館所蔵 前田文書164)からその時の様子をみていきましょう。
 
嘉永7(1854)年5月11日、訪れた柳の間詰大名13名(実際は10名)に対し、富山藩ではそれぞれ専属の給仕役2名をつけて対応しました。饗応はまず表書院における料理からはじまります。当日の料理についてはあらかじめ出入の坊主に各人の好みを聞いて用意するという念の入れようでした。料理のあとは、奥書院に場所を移して酒宴となり、席画(せきが)といって幕府の御用絵師の狩野勝川院雅信(かのうしょうせんいんただのぶ)と町絵師の春木南溟(なんめい)を同席させて即興(そっきょう)で絵を描かせました。『旧事回顧録』には、柳の間詰めのうち1、2万石の小身の大名の中には、娘の嫁入道具にしたいという下心から雪月花の墨画や極彩色の屏風などの所望があったため、富山藩は彼らのリクエストを叶えるのに狩野家だけで100両に及ぶ謝礼を支払ったと記されています。
 
この『旧事回顧録』には、後日談があり、その年の暮れに12代利聲が無事に四品に昇任し、大広間詰めとなり、大広間詰めの大名を招いた時のことも記されています。その際にも同様に絵師を招いて即興で絵を描かせたのですが、絵師が半分ほど描いたところで、ある大名が「意(勝の誤記ヵ)川子が今描いた岩の上に、拙者が有名な松を1本植えるなり」と言って松を描き、続いて佐竹侯(秋田藩主)が「松があれば鶴がいなくては面白からず」といって鶴を描くというように、皆がかわるがわる筆をとって描いたとのことで、同じ大名でも家格の違いによってこうも違うと評しています。
 
先の柳の間詰め大名の大半は富山前田家のように昇任することなく、柳の間詰めのままであるため、わずか1、2年で大広間詰めに移ってしまう富山前田家とは長期的につきあう必要がないことを見越しておねだりをしたものでしょう。富山前田家においても、この1、2年の間をつつがなく過ごすことが大事であったため、彼らの要求を受け入れざるを得ませんでした。一方、大広間詰めの大名たちは富山前田家よりも家格が高く、また姻戚関係にある家も多かったので、うってかわって和やかな場となったのでしょう。
(小松)