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二代以降の墓は、初代墓と比べると一回り小さく、二代墓の大きさ、形がその後の藩主墓の基本となっています。
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基壇は下部長が545cm前後、上部長は212cm前後とほぼ同寸法で造られています。墓によっては基壇下部長に±10cm程のばらつきが見られますが、切積石が崩れている部分があり、これまでに積み直しなどの修繕が行われた可能性も高く、こういったことから寸法にばらつきが生じたと思われます。
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墓標は寸法を見ると、八代墓までと九代墓以降に分かれるようです。九代墓以降は、八代墓までに対してすべての部位でわずかに大きくなっています。九代墓以降の3基は形も類似しています。
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また、塔身部の厚さが上端と下端で同じものと上に行くほど狭くなるものが見られます。明治期の「御墓絵図」ではすべての藩主墓で下端の厚さしか記されていないため、造立時からこのような形であったのかは不明です。
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墓標の側面に刻まれている没年月日には、現在刻まれている日付が実際の没年月日と異なるものがあります。七代墓・八代墓・十一代墓で見られ、七代墓では「八月」が「七月」、八代墓では「二十六日」が「二十五日」、十一代墓では「二十日」が「十日」となっており、いずれも一部分のみの違いです。現在側面に刻まれている没年月日ですが、明治17年の改刻までは塔身正面額内の戒名脇に刻まれており、大法寺に残る改刻前の拓本ではすべての藩主墓で実際の没年月日が刻まれているのが分かります。現在側面に刻まれている没年月日は改刻時に新しく刻まれたと思われ、その時に誤った日付を刻んだ可能性があります。 |
(小林) |
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