シリーズ縄文講座(8)
縄文土偶の“まつり”その2
 
長岡八町遺跡の土偶
長岡八町遺跡は、北代縄文広場の北側約500mにあり、「北代緑地(2005年4月オープン)」造成工事に先立ち、2003年5月に発掘調査が行われました。縄文時代後期後葉から晩期初頭(約3000年前)に営まれた集落跡で、その集落北側の谷の斜面から北陸最大級の土偶の頭部が1点出土しました(右写真)。全長を復元すると約38cmにもなると推定されます。

長岡八町遺跡出土土偶頭部
土偶を横から見ると、顔面が平らに磨かれています。また、耳穴の裏側には浅く短い横線が引かれ、紐を通していた様子が表現されています。このことから、土偶は仮面を装着した女性をかたどっているようです。同遺跡では、昭和35年にも同じくらいの大きさの土偶の顔の一部が出土していました。
 
新しい土偶祭祀
土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。
この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期から晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。
長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。