シリーズ縄文講座(3)
縄文土偶の“まつり”
 
縄文時代は儀礼や呪術が盛んな時代と考えられています。その儀礼や呪術で使用された道具の代表が「土偶」です。では儀礼や呪術でどのように使用されたのでしょうか。
土偶は遺跡から完全な形で出土する例は稀で、ほとんどは壊された状態で見つかります。富山県八尾町長山遺跡の土偶の多くは頭部・腕・胸部・でん部・脚部を別々に作り、それらを組み合わせて一体の土偶を作っていることがわかっており、土偶は壊されることを前提として作られたと考えられています。
土偶のまつりはムラの広場や聖なる場所で行われたと考えられます。“まつり”で土偶を壊した後、まつりの参加者は壊された土偶の一部をそれぞれ持ちかえり、廃屋になった住居の窪みやムラの各所に納めたりしました。あるいは自分の住居の中に埋めたり、そのまま置いたりもしていたようです。
土偶は作られることによって「生命」を授かり、魂が宿ります。その霊魂を広くいろいろな場所に配布できるように、土偶は壊されるのです。土偶の破片の配布は、聖なる「よみがえり」の力を広くムラ社会全体に及ぼすとされています。

では、富山県内の縄文時代の遺跡ではどのように配布されていたのでしょうか。

今ほど紹介した長山遺跡は中期前葉(今から約5000年前)の集落跡で、土偶が49点も出土しています。この遺跡で土偶は、竪穴住居などではなく、土器や石器などが集中して捨てられた場所から出土しており、土偶を捨てる場所が決まっていたようです。ここは集落の中で特別な意味を持つ聖なる場所であったと考えられています。土偶は“捨てる”のではなく、聖なる場所に土偶を“送る”といった縄文人の意識を反映しているとされています。
富山県大山町東黒牧上野遺跡は中期中葉(今から約4500年前)の集落跡で、約30棟の竪穴住居が確認されています。土偶は40点出土しており、そのうちの4分の1は竪穴住居の覆土から出土しています。頭部の破片が多く見られ、“まつり”が終わった後、廃屋となった住居へ頭部片を選んで納めていたのではないかと考えられます。
また土偶が8点も出土した竪穴住居(1号住居)があります。土偶が最も多く出土したこの住居は、長軸8mで、調査で確認されたなかで最も大きい住居です。この住居の柱の外側には、それぞれ長さ約45から75cmの自然石が2つ一組で配置されており、他の住居とは違う特殊な内部構造をしています。集落の中で最大の特殊な住居は廃屋となった後も、特別な場所として土偶を納める場となったのではないでしょうか。この住居の柱穴からも土偶が出土しており、柱を建てる際の地鎮祭(じちんさい)に土偶を使用したことも考えられます。
富山県庄川町松原遺跡は、中期前葉から中葉(今から約5000から4500年前)の集落跡で竪穴住居が13棟確認されており、土偶は4点出土しています。そのうちの1点は少し異様な風貌をした頭部の破片で、住居内に置かれた石の下から出土しています。住居内に安置していた土偶が人目にさらされないように石で隠していたのでしょうか。
このように、富山県内からは多くの土偶が出土しています。縄文人たちは土偶の“まつり”を行って、ムラの繁栄を願っていたようです。