友坂ともさか遺跡

鎌倉から戦国時代の集落
 (婦中地域)
この遺跡は、神通川じんづうがわ支流井田川いだがわ左岸の標高12mから18mの低位面ていいめんから氾濫はんらん平野上に立地する、縄文・奈良から近世にわたる集落跡及び中世の城館跡です。


昭和56・57年と平成3・4年度には、朝日あさひ小学校改築に伴う調査で、掘立柱建物ほったてばしらたてもの土坑どこう、中世の大溝などが見つかりました。大溝は幅4mから5.7mで、直角に折れ曲がり二重にめぐる構造です。これらの遺構から、鎌倉時代から室町時代(12世紀から15世紀代)の館があったと考えられます。


平成25年度の発掘調査で、主に鎌倉から戦国時代の素掘すぼり井戸2基や溝、土坑、柱穴が見つかりました。出土遺物には、須恵器すえき土師器はじき中世土師器ちゅうせいはじき珠洲すず青磁せいじ土錘どすいなどがあります。

検出した井戸は、2基とも素掘りです。

素掘りの井戸は、掘るのは簡単ですが、壁が崩れやすく、長期間維持するには手間がかかります。友坂遺跡では、過去の発掘調査で館跡周辺に中世の木組きぐみ石組いしぐみの井戸が見つかっており、堅固な構造の井戸を築く技術や知識は、この地域にも伝わっていたことがわかります。
平成25年度調査区全景(東から)
平成25年度調査区全景(東から)
 
平成25年度調査区西側下層完掘(南から)
平成25年度調査区西側下層完掘(南から)
 
平成25年度調査区 井戸(北西から)
平成25年度調査区 井戸(北西から)
このことから、見つかった素掘り井戸は、集落の縁辺部えんぺんぶで短期間だけ水を得るために掘られたか、あるいは農作物用の野井戸のいどと考えられます。

この調査では、以前見つかった館跡や遺跡の北東0.8kmにある国史跡安田城やすだじょうと同時代の集落が、南にも広がっていることがわかりました。
 
また、遺跡の北東1.7kmには、製鉄関係せいてつかんけい工人こうじん集落遺跡である金屋南かなやみなみ遺跡があり、白鳥城しらとりじょう大峪城おおがけじょうなど城館遺跡も点在します。このことから、遺跡周辺は戦国時代には越中えっちゅうの交通の要衝ようしょうとして、重要な位置をめていたと考えられます。
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
友坂遺跡発掘調査報告書   友坂遺跡発掘調査報告U   友坂遺跡発掘調査報告V
婦中町教育委員会 1984
『友坂遺跡発掘調査報告書』
  婦中町教育委員会 1993
『友坂遺跡発掘調査報告U』
  婦中町教育委員会 1997
『友坂遺跡発掘調査報告V』
     
富山市内遺跡発掘調査概要11   富山市内遺跡発掘調査概要21   富山市友坂遺跡発掘調査報告書
富山市教育委員会 2014
『富山市内遺跡発掘調査概要]T』
  富山市教育委員会 2019
『富山市内遺跡発掘調査概要21』
  富山市教育委員会 2020
『富山市友坂遺跡発掘調査報告書』