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千坊山遺跡 |
弥生時代終末期の大規模な集落遺跡です。独立した台地に立地し、24棟の竪穴住居跡が見つかりました。背後の丘陵縁辺部にある六治古塚墳墓・向野塚墳墓・添ノ山古墳(消失)の3基の墓は、この集落が築いたと考えられます。王塚古墳・勅使塚古墳との地理的関係などから、古墳時代に首長を生み出した集団との関連が推測されます。 |
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六治古塚墳墓 |
弥生時代終末期に築かれた四隅突出型墳丘墓です。河岸段丘南縁辺部に立地し、南方の谷には辺呂川が流れます。一辺24.5m、高さ5.1mと大型で、突出部は長さ7.2m、幅10.6mです。墳丘周囲には、丘陵側を中心に溝が巡っています。居住域は平野側にある千坊山遺跡と考えられます。 |
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六治古塚墳墓(四隅突出型墳丘墓) |
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向野塚墳墓 |
弥生時代終末期から古墳時代初頭に築かれた、県内最古の前方後方形墳丘墓です。六治古塚墳墓の110m北東に位置します。規模は、全長25.2m、前方部は長さ10.2m、幅8.1m、後方部は長さ15.0m、幅16.5m、頂部の高さ1.7m、くびれ部幅5.1mで、周溝が巡っています。遺跡群唯一の前方後方形墳丘墓で前方後方墳への過渡期の墳丘形態を示します。居住域は、六治古塚墳墓と同じ千坊山遺跡と考えられます。 |
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富崎墳墓群 |
弥生時代後期から終末期の四隅突出型墳丘墓3基で構成されます。山田川右岸の富崎丘陵北縁辺部に立地し、居住域は、後期から終末期は高地性集落の富崎赤坂遺跡・離山砦遺跡で、終末期には麓にある富崎遺跡に移ったと推測されます。 |
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富崎千里古墳群 |
古墳時代前期に築かれた県内有数規模の古墳群で、富崎丘陵の東縁辺部に立地します。南群14基(前方後方墳1基、円墳1基、方墳12基)、北群3基(方墳3基)で構成され、前方後方墳の9号墳を頂点に、方墳や円墳が並ぶ光景は圧巻です。首長を支えた小地域の統率者たちが計画的に葬られた墓域と考えられます。 |
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王塚古墳 |
羽根丘陵の尾根上に立地し、谷を挟んで南方には県内最古の大型前方後方墳の勅使塚古墳があります。現況での全長は58mで県内で4番目に大きな前方後方墳です。前方部は長さ27m、幅26m、高さ3.6m、後方部は長さ31m、幅33m、高さ7.6m、くびれ部は幅15mを測ります。前方部は後世に削平されていると考えられる為、もっと大きかった可能性もあります。
未発掘の為、内部の構造や副葬品などは不明ですが、墳丘形態から勅使塚古墳築造直後に造られたものと考えられます。 |
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勅使塚古墳 |
県内最古の大型前方後方墳で、3世紀末の築造と考えられます。規模は、全長66m、前方部は長さ31m、幅24m、高さ3.5m、後方部は長さ35m、幅37m、高さ9m、くびれ部幅11mで、氷見市柳田布尾山古墳に次いで県内2番目の規模を誇ります。前方部は裾部を削り出して整形し、後方部は大規模な盛土によって高い墳丘を築いています。
後方部中央で見つかった墓坑は、形状が長方形で、長さ6.2m以上、幅は6.1mあります。墓坑内部には木棺が安置されていると推測される郭の痕跡が確認されています。
遺物は高杯、蓋、壺などの土器が出土しており、墳頂部に供献土器が置かれていたものと考えられています。
王塚古墳・勅使塚古墳が立地する羽根丘陵の裾部には、弥生集落の千坊山遺跡や遺跡群唯一の前方後方形墳丘墓の向野塚墳墓、四隅突出型墳丘墓の六治古塚墳墓があります。これらを築いた集団は、古墳との距離的関係や前方後方形墳丘墓の存在から、首長に繋がる系譜である可能性があります。 |
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王塚古墳 |
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勅使塚古墳 |
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