中地山城跡なかちやまじょうあと

飛騨武将の一大拠点
市史跡(大山地域)
立地
中地山城は、北を常願寺川、西を小口川、東方を和田川に挟まれた台地上に築かれた山城で、常願寺川との比高約150m、標高は約380mの高所にあります。現在、城の西側にある集落は、当時、城下町だったと考えられます。
和田川をはさんだ東方約1.5kmには、小見おみ城があり、中地山城の出城か詰城だったと思われます。
城の麓、西側には水須みずす有峰ありみね大多和おおたわ峠を経由し飛騨に通じる道「うれ往来」がありました。「うれ往来」は山岳地帯を通るため、冬季の通行は不自由でしたが、それ以外はよく利用されていました。中地山城を築城した江馬えま氏は、「うれ往来」を支配下に置くことで、越中へ進出しました。
 
 
歴史
永禄年間(1558から1570)に、江馬輝盛てるもりにより築城され、城代は家臣の河上富信かわかみとみのぶと伝えられます。
江馬氏は、飛騨(現在の岐阜県飛騨市神岡町)を中心に勢力を有した武将で、「うれ往来」を押さえ中地山へ進出後、上杉氏に協力し越中で活動しました。
永禄12年(1569)に、江馬輝盛は常願寺川対岸の芦峅寺あしくらじの池田城に在城した寺嶋氏(反上杉)をけん制するため、芦峅寺内に乱暴狼藉ろうぜきをしないよう記した制札せいさつ禁令きんれい・法規などを箇条書きにして、道端や寺社の境内けいだいなどに立てた札)を下しました。
元亀げんき三年(1572)には、加賀の一向一揆が富山城を占拠した時に、上杉謙信の富山城攻めに加わりました。江馬氏は、本拠地が飛騨という地理的特性を生かし、上杉一辺倒ではなく武田氏とも交渉を保つなど、周辺の有力者へたくみな外交を行っていました。
天正6年(1578)に上杉謙信が亡くなったのち、中地山城は、織田勢(三木・斉藤氏)の攻撃により落城し廃城はいじょうとなりました。
 
 
構造
中地山城は、常願寺川に向けて張り出した広い台地を利用して造られており、本丸ほんまるは、台地の北側にあります。本丸の規模は、27m×25mほどで小高い山状の「城山じょうやま」を中心としています。
本丸の北側には「城天じょうてん」と呼ばれる、45m×50mの広い平坦面があり、城内で最も中心的な居住施設が置かれていました。

「城天」の北西斜面には、削平された所が3カ所ほどあり、最下段の常願寺川に面した所には、低い土塁どるい状の高まりがあり「城天のそで」と呼んでいます。

「城山」を囲むように、東から南側の二方は、長さ約150mの長大な「内堀」で守られており、幅約6mから10m・深さ約4mです。内堀には、土橋どばし(幅13mから15.5m)が設けられています。内堀の南側には、東西に続く長さ約150mの外堀があり、幅は西側で15mから20m、東側で約26m・深さ約1mです。内堀と外堀の長大な空堀は、中地山城の大きな特徴です。

以前、城内にあった「殿様の馬乗り石」(幅約1.5m・長さ約1.7m・高さ約0.5m)と呼ばれる大きな自然石(安山岩)が、集落内の中地山神社の境内 に移されています。
城山(杉林の左奥)
城山(杉林の左奥)
 
内堀
内堀
 
殿様の馬乗り石
殿様の馬乗り石
縄張り図
縄張り図
(富山県埋蔵文化財センター 2006 富山県中世城館遺跡総合調査報告書より)