長棟鉛山遺跡は、富山市南部の岐阜県飛騨市との境、標高約1200mから1300mの高所に位置します。寛永3(1626)年に山師である大山佐平次が発見しました。最盛期は正保年間(1644)頃までの約20年間で、盛時には平均して年6万貫(1貫は3.75kg)ほどの鉛が採掘され、家数300軒、小屋800軒があったといわれています。正保年間から寛文6(1666)年は、鉛の価格が大暴落し、困窮した山師が下山して生産が大幅に減りました。宝永年間以降(1704から)は経営規模が縮小され、家族中心の経営となりました。明治期には三井鉱山株式会社が操業しましたが、昭和10(1935)年に在住者が他所へ移転し、長棟村は廃村となりました。 |
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平成23年度に分布調査を行ったところ、坑口(坑道の入り口)が31か所で見つかりました。富山・岐阜県境の池ノ山(1368.7m)周辺に多くみられます。内部が崩落せずに旧状をよくとどめているものもあります。採掘した鉱石を運搬するための道の痕跡も確認できました。このほか、製錬を行ったとみられる地点が見つかっています。このうちの一部の坑口や製錬場は、天保3(1832)年の『新川郡山室組長棟村領絵図』に描かれています。現時点で個々の遺構の詳しい時期は不明ですが、江戸時代から明治時代までの新旧のものが混在しているとみられます。 |
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鉛は、金や銀を製錬するときの材料として使われたほか、砲丸・白粉などにも利用されました。加賀藩・富山藩の財政・産業を支える重要な鉱山遺跡だったのです。 |
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