亀谷銀山遺跡は富山市南東部の亀谷地区の山間地にあり、南北約6.5km、東西約6kmの範囲に広がります。越中の主要鉱山「越中七かね山」の一つに数えられています。 |
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銀山の発見は天正6(1578)年とされています。慶長年間が最盛期で、家数100軒、人足2000人余りを使役したと伝えます。この頃、加賀藩二代藩主前田利長が、産出した銀を花降銀に鋳造して、徳川家康・秀忠に献上しました。寛永年間からは徐々に衰退し、山師や鉱夫も亀谷から離れる者が多くなりました。明治・大正期には民間会社が経営を行いましたが採掘量は少なく、大正15(1926)年に休山しました。 |
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平成22年度に分布調査を行ったところ、坑道の入り口である坑口が14ヶ所(可能性があるものを含む)見つかりました。坑口の多くは谷の斜面に掘られていて、現在はほとんどが崩落しかけています。確認した坑口は明治以降のものが多いとみられます。 |
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亀谷銀山遺跡の坑口1 |
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このほか鉱石を製錬したときに生じる鉱滓を廃棄した場所があります。鉱滓廃棄場は坑口の近くと亀谷集落に認められることから、採掘した鉱石を坑口近くで製錬する場合と集落まで運んで製錬する場合の二通りがあったと推測できます。 |
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鉱石を山から運び出す際は、尾根を通る道と等高線に沿った水平道を使いました。前者は牛などを使って運ぶ道、後者はトロッコ等の軌道と考えられます。 亀谷銀山は江戸時代の加賀藩の財政を支える重要な鉱山でした。これまでほとんど不明だった遺構の様子が次第に明らかになってきました。 |
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亀谷銀山遺跡の坑口2 |
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参考文献 |
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小葉田淳 1968 |
「亀谷銀山」 『日本鉱山史の研究』岩波書店 |
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野垣好史 2013 |
「亀谷銀山分布調査報告」『富山市考古資料館紀要』第32号 富山市考古資料館 |
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関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます) |
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富山市埋蔵文化財センター 2011
『富山市の遺跡物語 第12号』 |
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富山市埋蔵文化財センター 2012
『富山市の遺跡物語 13号』 |
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