百塚住吉ひゃくづかすみよしD遺跡

古代の馬小屋か
(富山地域)
百塚住吉D遺跡は呉羽丘陵の北端、旧神通川の河岸段丘上に位置し、西は射水平野の東端部を望むことができます。
平成23年度に基幹農道整備事業に伴い発掘調査を実施しました。飛鳥時代から平安時代にかけての掘立柱建物・柵列さくれつ・溝・土坑・畠(畑)など多数の遺構がみつかりました。出土した遺物には飛鳥時代の製塩土器・須恵器や奈良から平安時代の土師器・須恵器があります。
平成23年度調査区全景(上が北)
平成23年度調査区全景(上が北)
 
 
遺構の移り変わり
飛鳥時代から奈良時代前期(7世紀後半から8世紀前半)には竪穴住居(竪穴建物)(6.1m×5.9m)や土坑が築かれ、この頃に集落が形成され始めました。 奈良時代後期から平安時代前期(8世紀後半から9世紀)には掘立柱建物や大型土坑・柵列・畠(畑)・溝などが東西方向に整然と並んでいました。 掘立柱建物は、まず南北に長い3間×2間の建物が建てられた後、同じ場所に東西に長い2間×4間の建物に建て替えられました。東西建物の時期にはその東側に、長方形の大型土坑(長さ5.3m、幅2m、深さ0.35mから0.85m)が2つ並んで設けられました。そのうち1つの土坑には2間分の柵列が伴っていました。
 
 
大型土坑は馬小屋か?
調査区内で見つかった2つの大型土坑は、その大きさから、馬小屋や貯蔵穴、水ためなどの用途が考えられます。
西に隣接する平成22年度発掘調査区では、大型ほ乳類の骨が出土しました。当時は牛か馬が考えられます。
一方、この土坑の底の土を分析したところ、イネ科の植物やクマザサなど、馬のえさとなりそうな草花の花粉がみつかりました。
馬小屋のイメージ図
馬小屋のイメージ図
これらのことから、大型土坑は馬小屋として利用されていた可能性があります。近くに畠があったことから、馬は農耕用として飼われていたのでしょう。深い穴に稲わらを敷いて馬に踏ませ、肥料を作っていたと推測されます。 遺跡は、古代射水郡寒江郷さむえのごうの東端に位置する集落です。旧神通川の河岸段丘上に位置し、対岸は新川郡です。農耕以外に、人や物資を運ぶための馬としても使われたのかもしれません。
 
 
関連書籍(表紙をクリックすると全国遺跡報告総覧のホームページが開きます)
  富山市内遺跡発掘調査概要6   富山市百塚住吉D遺跡発掘調査報告書
  富山市教育委員会 2005
『富山市内遺跡発掘調査概要Y』
  富山市教育委員会 2011
『富山市百塚住吉D遺跡発掘調査報告書』
 
  富山市百塚住吉D遺跡発掘調査報告書2  
  富山市教育委員会 2012
『富山市百塚住吉D遺跡発掘調査報告書U』