平榎亀田ひらえのきかめだ遺跡

幻の「平榎城ひらえのきじょう」に関連する城館跡か
(富山地域)
平榎亀田ひらえのきかめだ遺跡は、常願寺川下流左岸の沖積平野に位置し、標高は5mです。平榎集落の東側の常願寺川堤防付近にはかつて「平榎城」と呼ばれた城跡があったと伝えられています。
 
平榎城は、河内国枚方城ひらかたじょうの城主であった埜崎のざき(野崎)政光の子、雅彌が永正元(1504)年に築城し、天正初め頃に越後の上杉謙信に攻められ落城したと伝えられています(館盛英夫1980『平榎城』)。数度の常願寺川の洪水で、場所は不明となり、戦国史上にほとんど登場することのない幻の城です。 付近には野崎氏の家臣林氏の家老屋敷があったとも伝えます。
調査区近景(東から)
調査区近景(東から)
県営ほ場整備事業に先立ち、平成26年9月から平成27年1月に平榎亀田遺跡と浜黒崎野田・平榎遺跡にまたがる22ヘクタールを対象に、試掘調査を実施しました。
 
 
水田の下から遺構や遺物が続々出土
平榎集落東側の水田一帯に、中世後期から近世の堀・溝・井戸などの集落を示す遺構を多数確認しました。 堀には、V字形に切り込んだ薬研堀やげんぼりや、片方の斜面が緩やかな片薬研堀があります。堀や溝からは、かわらけ・瀬戸美濃焼・珠洲焼・青磁などの陶磁器類のほか、漆器・下駄なども出土しました。 遺構群の広がりの北側には、幅3mの東西方向の道路跡がありました。 この他、弥生時代や平安時代の遺構・遺物も見つかっています。
城館の北側を東西に横切る道路か(北から)
城館の北側を東西に横切る道路か(北から)
 
堀跡からの漆器出土状況(点線は堀の斜面)
堀跡からの漆器出土状況(点線は堀の斜面)
 
 
幻の平榎城か
平榎集落の東側で確認された戦国から江戸時代の遺構の広がりは、東西約180m、南北約180mの規模があり、幻の戦国期平榎城に関連した遺構と推測されます。ここでは幅の広い堀とみられる溝が東西南北方向に延びることから、複数の曲輪が存在していた可能性があります。今後の調査により、城館遺構の配置や規模、構造などの詳細の解明が期待されます。