富山平野の南端、飛騨山地へと続く丘陵地帯の中腹に遺跡は所在し、現在は跡地に石碑が建てられています。 |
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越中丸山焼は、越中瀬戸焼・小杉焼とならんで越中近世三大窯の一つに挙げられます。九谷風の赤絵の製品が有名ですが、作風は瀬戸・清水・伊万里と多岐に渡り、初期は陶器のみの生産でしたが、後に磁器も作るようになりました。また生活雑器から茶器まで多種多様な製品を作っています。 文政12年(1829)、京都で製陶を学んだ山本甚左衛門が郷里の丸山村で窯を開いたのが始まりで、当初は経営難で苦しみましたが、富山藩からの援助を受け発展しました。 |
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越中丸山焼窯跡 |
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最盛期には前口40間、奥行37間の敷地に工場、13基の窯、50人を数えたといわれる工人の住居など幾棟もの建物が立ち並び、富山湾からも見えたと伝えられます。技術習得に積極的で九谷・瀬戸などから技術指導者や工人を招き、作風・器種ともに多様化していきました。 |
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しかし安政5年(1858)、安政の大地震で窯が大破し、富山藩からの援助はあったものの次第に衰退していきました。廃藩置県そして甚左衛門が明治3年に亡くなったあとは、販路縮小・製品の質の劣化が深刻になり、明治27年に廃窯しました。 昭和36年に市の史跡に指定されています。 |