大山歴史民俗資料館 展示案内
常設展示
第一展示室
三賢人と文化財
大山地域の三賢人、山岳ガイドの宇治(うじ)長次郎(ちょうじろう)・高野山金剛峯寺(ぶじ)管長の金山穆韶(ぼくしょう)・槍ヶ岳開山の播隆(ばんりゅう)上人(しょうにん)の資料を展示しています。大山地域の文化財を写真を中心にして紹介しています。
三賢人
文化財
第二展示室
常願寺川の治水と発電
常願寺川の水害と治水・発電についての資料を中心に展示しています。治水では、明治時代のオランダ人技師ヨハネス=デ=レイケ等を取り上げています。
屋外展示として正面には直径約4メートルもの巨大な水車があります。水力発電で実際に使用されていたものです。
第三展示室
有峰、大山地域の鉱山・恐竜
有峰の歴史と文化についての資料から、そこで暮らした人々の生活を探ります。
大山地域の鉱山、亀谷(かめがい)銀山・長棟(ながと)鉛山のかつての繁栄を知ることができます。
大山地域で見つかった、恐竜の足跡化石や歯の化石などを見ることができます。
有峰東谷の宮に置かれていた4対8体の狛犬(こまいぬ)
富山市指定有形民俗文化財
企画展
大山歴史民俗資料館では毎年、企画展やミニ企画展を行っています。
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三賢人
山の名ガイド 宇治長次郎
明治4年(1871)12月23日―昭和20年(1945)10月30日
明治40年(1907)、その険しさから針の山とおそれられていた剱(つるぎ)岳へ陸軍陸地測量部の柴崎測量隊が宇治長次郎を案内人として挑(いど)み、見事に測量登山としての初登頂(はつとうちょう)を果たしました。
明治42年(1909)に再び、吉田孫四郎(まごしろう)一行による民間登山者を案内して剱岳登頂へ導き、近代登山の幕を開きました。
大正9年(1920)から冠(かんむり)松次郎(まつじろう)と共に人跡未踏(じんせきみとう)であった秘境黒部峡谷(きょうこく)の上廊下(かみのろうか)、下廊下(しものろうか)、剱大滝など、黒部川全域を探索しました。
山をよむ力や脚力に優れ、登山には協調が重要であると仲の良さを身をもって示しました。誰もが認める名ガイドとして生涯を送りました。
槍ヶ岳開山・笠ヶ岳再興 播隆上人
天明6年(1786)―天保11年(1840)10月21日
江戸時代後半、富山市河内(かわち)(旧大山町河内)に農家の次男として生れました。10代後半で富山を離れ、浄土宗の僧侶(そうりょ)となって各地で修行を重ね、信仰のため厳しい山々へ登り、美濃や飛騨などで布教活動を続けました。文政6年(1823)、百年間途絶えていた笠ヶ岳を再興し、その時対峙(たいじ)している槍ヶ岳の開山を決意。
今から約190年前の文政11年(1828)、播隆上人によって槍ヶ岳の開山がなされました。天保11年(1840)信徒(しんと)により槍ヶ岳山頂に鉄鎖がかけられ、大願成就(たいがんじょうじゅ)しました。
槍ヶ岳周辺(右上に槍ヶ岳)を描いた地図で播隆筆とされる。天保6年(1835)に生家宛の書簡に同封されていました。
文政9年(1826)、播隆は槍ヶ岳を目指して建設途中の飛州新道を経て松本に向いました。
真言宗管長 金山穆韶
明治9年(1876)10月30日―昭和33年(1958)6月11日
明治9年、富山市文珠寺(もんじゅじ)(旧大山町文珠寺)に生まれた金山穆韶は13歳で上市町の大岩山(おおいわさん)日石寺(にっせきじ)に入門しました。
明治30年(1897)、22歳で高野山(こうやさん)大学に入学し、明治38年(1905)には高野山大学教授に就任しました。
昭和15年(1940)から20年(1945)まで高野山大学長としての重責を果たしました。戦時体制下、他大学との合併を政府から指示されましたが、大学の伝統を守り、真の宗教家を養成するには大学の独立が大事と考え大変な苦労をして高野山大学の独立を守りました。真言宗の理論を極め修業でも並ぶものがなく昭和28年(1953)、高野山真言宗管長金剛峯寺(こんごうぶじ)座主(ざす)に就きました。
また、北陸の高野山として倶利迦羅不動寺(くりからふどうじ)の復興に尽力し、昭和33年(1958)天徳院(てんとくいん)で遷化(せんげ)。戒律を守り厳しい師でしたが無欲で質素な生活に満足し、愛情深い人間味あふれる人柄でした。
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大山歴史民俗資料館
〒930-1459 富山市亀谷1番地
電話番号:076-481-1415
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