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第五十二号
平成13年10月23日
●収蔵品紹介



収蔵品紹介
山の秋
郷倉千靭(ごうくらせんじん) (1892〜1975)


山の秋


  郷倉千靭は富山県小杉町出身、東京美術学校(現在の東京芸術大学)で日本画を勉強した後、作品を主に院展に出展し活躍しました。 東洋仏教絵画に興味をもち、仏教をテーマとした作品も多く残しました。
 また昭和11年から同41年まで多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)の教師を勤めています。
 昭和7年に妙高赤倉にアトリエを設け、自然の中で熱心に写生したそうです。そんな中でこの作品が生まれ、昭和11年に院展に出品されました。青く遠く澄んだ空に、山ブドウやあけびといった山の幸、りんどうや茶色に染まったあじさいの花などから、秋の山の風景が思い浮かびます。そこに二羽のうさぎの一瞬の動きが描き込まれています。ほのぼのとした、童話中の絵のような作品です。










梅幸百種 〜ばいこうひゃくしゅ〜

 当館に多く収蔵する、江戸時代後期から明治時代半ば頃までの版画・浮世絵の中から、代表的な歌舞伎役者絵である「梅幸百種(ばいこうひゃくしゅ)」という作品をご紹介します。


「梅幸百種(ばいこうひゃくしゅ)」とは、梅幸という歌舞伎役者が扮した100種の役を版画であらわしたもの。浮世絵絵師の豊原国周(とよはらくにちか)の作。



梅幸(ばいこう)・・・

尾上梅幸(ばいこう)。歌舞伎役者の名前。
また尾上菊五郎(きくごろう)の前名・俳名(雅号)。
今までに9人が梅幸を名乗っている。



梅幸百種目録

「梅幸百種目録」


 この版画「梅幸百種」に描かれた梅幸は、五代目尾上菊五郎です。



五代目尾上菊五郎
(おのえきくごろう)・・・弘化元年(1844)〜明治36年(1903)。
本名は寺島清。
屋号は音羽屋(おとわや)
十二代目市村羽左衛門と三代目尾上菊五郎次女とはの息子(→三代目菊五郎の孫にあたる)。
初名は市村九郎右衛門、前名は十三代目市村羽左衛門・四代目市村家橘(かきつ)
6歳で初舞台を踏み、以後17年間に市村座の座元をつとめ、明治元年に五代目菊五郎を襲名した。



では「梅幸百種」から五代目菊五郎の当り役を見ていきましょう。

 菊五郎を名乗る前、まだ市村座を率いていた頃に初演した『弁天小僧』で、世に知られるようになったといいます。


弁天小僧

弁天小僧
「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」より
 盗人の弁天小僧の話


 二枚目立役から女形までよくこなしたといわれています。当館に収蔵する45枚(100種のうち)の中にも、華やかな女形の役を見ることができます。


お半

お半
「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」より
若く美しいお半と帯屋長右衛門の心中話


夕霧

夕霧

「郭(くるわ)文章」より
傾城夕霧と藤屋伊左衛門の相愛をえがいた物語



 菊五郎はお家芸として次の9種の演目を選びました(明治20年千歳座に明示)。
  土蜘、茨木、一つ家、菊慈童、羅漢、古寺の猫、戻橋、羽衣、形部姫
 この9種は主に妖怪や変化を主人公とする演目で、菊五郎はこれらを得意としたようです。


のち六代目菊五郎が『身替座禅』を上記に追加し、合わせて10種が
「新古演劇十種」と呼ばれました。
これは七代目市川団十郎が天保3年(1832)に選んだ
「歌舞伎狂言組十八番」<十八番=おはこ>に対抗するものでした。



土蜘

土蜘
「土蜘(つちぐも)」より
 蜘蛛(くも)の精を源頼光ら四天王が退治する話



 特に世話物(町人の生活の中の出来事を題材にした芝居)が得意で、早野勘平・白井権八・髪結新三・塩原多助などが当たり役だったそうです。


髪結新三

 髪結新三
「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」より
小悪党の新三の話

塩原多助

塩原多助

「塩原多助一代記」より
三遊亭円朝作の噺を歌舞伎に脚色したもの



 このようにたくさんの当り役をもった五代目菊五郎は、名優の九代目市川団十郎・初代市川左団次と並んで”団菊左”と称され、明治時代の歌舞伎界を担い活躍した役者さんでした。今回ご紹介した菊五郎の当り役や歌舞伎の芝居の中には、現在も菊五郎家が継承し得意とするものもあるようです。


 この「梅幸百種」という版画は、歌舞伎をよくご存知の方にとっては、芝居の役柄や話の内容を、浮世絵をよくご覧になる方は、絵師の腕や彫り・刷りの工夫を、またそうではない方も役者の顔や着物の模様などを、観察したり眺めたりと、たくさんの楽しみ方がある作品です。機会があればぜひ実際にご覧になってください。








ちょっと、昔のはなし

 陰陽師(おんみょうじ)という言葉や、安倍清明(あべのせいめい)という名前をお聞きになったことはありませんか。テレビ・漫画・映画などでも話題となっていますね。今回はこの陰陽師を取り上げてみます。


 江戸時代の富山藩の文書には、藩内の人口を調査して記録したものがあります。その中に陰陽師の人数が記されているものを書き出してみました。(『富山県史』より)

〔1〕 安永年中(1772〜80) 58人 陰陽師
〔2〕 寛政10年(1798) 96人 陰陽師
〔3〕 文化7年(1810) 新川郡井田組 5,879人に石田陰陽師、
新川郡奥田組に 1,204人に布市陰陽師
それぞれの人数を含む。
〔4〕 天保11年(1840) 95人 陰陽師(内 男53人 女42人)
〔5〕 文久元年(1861) 23軒 陰陽師
〔6〕 慶応4年(1868) ・太田組
  家数 1軒  5人 男2人 女3人 石田村
安倍清明の紋章
安倍清明の紋章
・寒江組
家数 24軒 114人 男59人 女55人
    19軒 92人 男59人 女55人 布市村
  3軒 13人 男59人 女55人 金屋村
2軒  9人 男59人 女55人 陀羅尼寺村


 これだけの資料では確実なことはわかりませんが、年々人数が増えてきたようです。また少なくとも石田・布市・金屋・陀羅尼寺という村に、陰陽師がいたことがわかります。その村々は旧新川郡の南にあり隣接しています。(現在の富山市の南方の石田・布市・南金屋・上栄にあたる地域)この地域は陰陽師が多く住んでいたのでしょうか。
 陰陽師とは特別な占い法で吉凶を判定する方術士ですが、飛鳥時代頃より主に朝廷に関わりながら存在していました。職業としても陰陽師という呼称が使われ、民間の生活にも深く関わったといいます。富山では陰陽師がどのような活動をしていたのかはまだわかりませんが、結構身近な存在だったのかも知れません。

 陰陽師安倍清明は千年ほど前の平安時代に実在した人物ですが、江戸時代の富山にも(あるいは江戸時代前後も)陰陽師はいたのですね。



富山城の石垣に陰陽師安倍氏の紋である星形が刻まれています

 ところで富山城の石垣に陰陽師安倍氏の紋である星形が刻まれています。富山の陰陽師が刻んだものなのでしょうか!?
(富山市埋蔵文化財センター藤田所長が拓本をとったところを写真に撮りました。さてこれはどこの石垣でしょう?)




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