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第五十号
平成13年4月28日
●収蔵品紹介  ●富山藩主が通った道



収蔵品紹介
富山藩山方絵巻』
伝 木村立嶽 (りゅうがく、りつがく) (1825〜90) 筆 


富山藩山方絵巻

 この資料は3巻からなる長い絵巻です。富山藩十代藩主前田利保が領内を巡った時の様子を描いたものとみられます。その道程の風景の中には、村や山の名前や富山からの距離などが金銀の題箋に細かく書き込まれています。よってこの絵巻の中で一行は、八尾の下の茗温泉や遠くは白木峰まで訪れていることがわかります。


 上に挙げた場面では、「飛州往来」と題箋に書き込まれた道の上に、藩主一行が南へ向かう様子がうかがえます。利保が乗っているであろう籠と、その先を行くお供の藩士たちが、立山連峰からのぼる朝日を仰ぎつつ、街道を南へ進む様子が描かれています。一行が通っている場所は「下懸尾定」(現在の富山市掛尾町付近)とあり、また富山城下から「道程三十丁計」*(約3.27km)とあります。この巻ではここから県境付近の猪谷付近までの風景が描かれていますから、そこまで一行は足を延ばしたのでしょう。
 藩主一行の道取りや、飛騨へ向かう街道の周辺地域の様子が示された貴重な資料です。
*〔「三十丁」は、一丁(町)を109.1mとして計算すると、約3.27kmになります〕






富山藩主が通った道
特別展 街道 〜越中を行き交う人々〜  より


 江戸時代には幕府の保護や統制のもとに、街道は整備され、人々の行き来も盛んとなりました。富山にもたくさんの街道が通っていたのですが、今回は富山藩主が利用した街道とこれにまつわる話をご紹介します。



参勤交代

 江戸時代には藩主や藩士が、参勤交代によって江戸と富山を幾度も行き来していました。その参勤交代のために使用した道は、どのようなルートをたどっていたのでしょうか。江東区教育委員会所蔵の近藤家文書の中にその道程を表す文書があります。






「十三泊御泊十四振御道割」
《江東区教育委員会所蔵 近藤家文書より》






参勤のルート  この文書によると、富山藩の参勤のルートは、北陸・北国街道を経て、追分から江戸までは中山道を通るものでした。また富山から13泊し、14日目で江戸に到着しています。(宿泊や休憩場所はその参勤の行き来の都合で異なることもあります。また災害などの都合で街道が変更になることもあったようです。)


 文書の記載に基づいて、地図上にその道筋を表すと、左のようになります。



藩主の葬列

 参勤交代で江戸と富山を往復するため、江戸にいる間に亡くなる藩主もいました。その時は富山へ向けて葬列が組まれ、遺骸が運ばれていきました。その道程は参勤と同様のルートです。

 江戸で亡くなった富山藩主のひとり、八代藩主前田利謙(としのり)の葬列の役目や人数を記した資料が残されています。

 利謙は享和元年(1801)5月頃より病気になり、8月頃には重病ということで、世継として大聖寺藩前田家より養子(九代藩主利幹(としつよ))を迎えることが承認され、26日に利謙は江戸で亡くなりました。(28日には利謙の香典として幕府より銀30枚が与えられています。)
 9月の初めに遺骸を富山に移すための葬列が江戸を出発したのです。




 この資料には利謙の葬列における家臣たちの名前や役目、人数などが詳しく記されています。ここに示した頁はほんの一部ですが、この部分には「御棺」「御棺舁(かき)四拾人」といった記載がみえます。

享和元年 利謙公御尊骸江戸株ッ橋マデ等 新庄ヨリ富山迄御行列帳

「享和元年
 利謙公御尊骸江戸ヨリ板橋マデ等
 新庄ヨリ富山迄御行列帳」
《富山県立図書館所蔵 前田文書より》



 遺骸が富山に到着すると、菩提寺で葬儀が行われ、その後富山城下を通って墓所へ向かいます。これは富山で亡くなった藩主も同様です。九代藩主利幹(としつよ)・十代藩主利保(としやす)の葬列の様子を記した資料が残っています。


 この資料は九代藩主利幹(としつよ)と十代藩主利保(としやす)それぞれの葬儀の行列の様子などを記しています。2人の菩提寺は大法寺・光厳寺と異なっていますが、そこから長岡へ行く道はほぼ同じルートをとります。


利幹公・利保公御葬式御行列帳
「利幹公・利保公御葬式御行列帳」
《富山県立図書館所蔵 前田文書より》




富山城下絵図

 菩提寺は城からみて南東の寺町(現富山市梅沢町付近)の中にあり、墓所は城から北に3kmほど離れた長岡(現富山市長岡新)にあります。

 利幹の葬儀の場合を見てみましょう。上記の資料によると、利幹の葬列は菩提寺である大法寺(だいほうじ)を出たあと、堤町−旅籠町−舟橋−愛宕−畠中というルートで墓所である長岡に至るとあります。主に富山城下の北陸街道を通っています。
「富山城下絵図」(部分)《当館蔵》



藩主利保の湯治

 さて藩主は参勤や葬礼のほか、巡視や行楽など様々な目的で領内を移動し、街道を行き来することがありました。
 富山藩主の中で、隠居後に度々城外へ出かけた十代藩主利保について見てみましょう。利保は持病のため参勤もままならない状態となり、幕府に願い出て弘化3年(1846)に隠居が許されます。嘉永元年(1848)には幕府から許しを得て、病気治療のため領内の八尾にある下の茗(したのみょう)温泉に出立しました。9月12日に江戸を出発し、23日富山に帰城します。そして30日には温泉に向かい、そこで一週間ほど湯治をしています。

富山藩山方絵巻

「富山藩山方絵巻」より
下の茗温泉の部分《当館蔵》
現在八尾町下ノ名 1787年に開湯



利保公依御願御領分下ノ茗温泉江 為御入湯就御帰城御道中奥御用所留

利保公依御願御領分下ノ茗温泉江 為御入湯就御帰城御道中奥御用所留

「利保公依御願御領分下ノ茗温泉江
為御入湯就御帰城御道中奥御用所留」
《富山県立図書館所蔵 前田文書より》


 ここには江戸の巣鴨の屋敷から富山へ、そして下の茗温泉へ出かける利保の旅程やその時の状況などが記されています。
 利保は旅の間、始終機嫌が良かったようです。






 それでは利保一行は八尾に向かうとき、どのようなルートをとったのでしょうか。

三州測量絵図三州測量絵図

「三州測量絵図」(部分) 石黒信由測量 《当館蔵》


 この嘉永元年の湯治の時は、城の大手門を出て、城下町の西方を真っ直ぐ南へ向かい、そこから舟で神通川を渡り、神通川西岸を通るルートで八尾に向かったようです。
(地図中1のルート)

 また、収蔵品紹介でご紹介した「富山藩山方絵巻」の部分では、城から南東の方に向かい中野町から掛尾方面を通る、つまり神通川東岸を主に通るルートをとっています。
(地図中2のルート)


 富山城から南へ向かう八尾・飛騨方面への街道は他にも幾通りもあり、その都度状況に応じて道を選んだようです。







 今回は藩主に関係した街道のみ取り上げましたが、様々な人が街道を利用し行き来していました。現在皆さんが歩いたり自動車で走ったりする道路も、江戸時代の街道と重なっているのかもしれません。


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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)