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第四十九号
平成13年2月28日
●富山大橋〜現在・過去・未来〜その2







富山大橋の欄干と橋名板

◆富山大橋の欄干と橋名板











 第47号では、富山大橋の前身である神通新大橋の歴史を追ってみました。
 新大橋は、歩兵第69連隊が現富山大学の敷地に設置されたことを機に、明治42年、神通川に架橋された木橋でした。それから約30年後、老朽化のため、新大橋の架け替えが決定したのです。今号では、現在に至る富山大橋の歴史を見てみることにしましょう。
 さあ、いよいよ富山大橋の登場です。





富山大橋〜現在・過去・未来〜 その2



富山大橋架橋

 新大橋に代わって新たに架けられた橋は、木橋ではなく鉄筋コンクリート造りの橋でした。新たに「富山大橋」と命名されたこの橋は、当時の新聞に「文化の架け橋モダン富山の豪華橋」と評されています。木橋が主流であった当時にあって、これほどの規模の鋼橋は、人々の目には、まさに「豪華」な橋と映ったのでしょう。
建設中の富山大橋 建設中の富山大橋
◆建設中の富山大橋
架橋工事の様子。それぞれ、隣に新大橋も見える。

 竣工式は、昭和11年4月13日に橋上にて挙行され、渡り初めは、土居原町在住の青木家三夫婦(*)により行われました。第47号を読まれた方はお気付きでしょうか。なんと、この青木家は、新大橋の渡り初めも行った家で、若い方の二夫婦は、新大橋を渡った27年後に、富山大橋の渡り初めも行っているのです。二つの橋を渡った4名の胸には、特別な感慨があったのではないでしょうか。
*渡り初めは、三代の夫婦が揃った一家により行われる風習があります。


予算と構造

富山大橋は次のような橋でした。 
 予算額は88万円で、これは富山県の橋梁工事としては破格の金額でした。実際にかかった総事業費は約91万4千円です。昭和9年3月に着工し、翌年11月に竣工しました。この間、昭和9年7月と翌10年6月に大出水に見舞われていますが、工事関係者の敏速な処置によって、被害は最小限に抑えられたということです。また、富山大橋には重要幹線である国道11号線(後の国道8号線)が通り、同時に呉羽山切り通しも開削されています。

昭和11年当時の100万円は、現在の約6億4千万円にあたります。
参考「総合卸売物価戦前基準指数」
完成した富山大橋

◆完成した富山大橋

橋種 ゲルバー式上路鋼桁橋※ 橋脚12基、橋台2基
橋長 472.4m
幅員 16.0m 車道12.0m 中央に単線軌道設置
歩道2.0m 両側各々
構造 鉄筋コンクリート
工事請負 工事一般 加藤金次郎
鉄部製作 横河橋梁株式会社(現(株)横河ブリッジ)
※ゲルバーという人が考案した工法の橋です。ここでは具体的な工法の説明は省略します。



完成した富山大橋

◆完成した富山大橋
加藤金次郎と富山大橋
架橋工事を請け負った、土木実業家の加藤金次郎は、“この橋は非常時に連隊が出動する上で重要な橋であるにも関わらず、原案ではその強度や将来装備されるであろう大型兵器への配慮が足りない”と考えました。そこで、原案の設計のまま安価で落札すると、直ちに橋脚の数を増やしたり、橋桁を強化するなどの設計変更を願い出ました。費用の超過分は加藤が負担したということです。利益よりも良い橋を架けることを優先したのです。加藤がいなければ、現在の「富山大橋」はありえませんでした。
当初の計画では、上に鉄骨のアーチを組むことになっていた。


戦争と富山大橋

 その後、間もなく戦争が始まりました。多くの男たちがこの橋を渡り、連隊へ入隊し、戦地へと向かいました。橋の欄干と橋名板も、金属回収令(*)により供出され、欄干は木製に替わりました。昭和20年の富山大空襲では、木橋のため焼け落ちた神通大橋に対し、鋼橋であった富山大橋は、傷つきながらも焼け残りました。しかし、その周囲には、神通川の河原に逃げた多くの人々の亡骸が、いくつも折り重なっていました。 昭和21年頃の富山大橋

昭和21年頃の富山大橋
木製の欄干。鉄柵が供出されてからは、このような姿が長く続いた。


◇富山大橋での出征兵士の見送り
*金属回収令
昭和16年に公布された法令。戦時中の金属資源不足を補うため、官庁や寺院・一般家庭などから、鉄や銅などの金属製品が回収された。



バス転落事故

 戦後、連隊跡には富山大学が置かれ、周辺は市街地化して賑わいをみせるようになりました。それに伴い、富山大橋を往来する人や車の数も増加しました。しかし、欄干は木製のままでした。そうする内に、昭和31年7月、中学校の臨海学校のため氷見へ向かっていたバスが運転を誤り、欄干を突き破って神通川へ転落するという大事故が起きました。付近の住民や通行人がすぐに救助に向かいましたが、生徒3名が死亡、61名が重軽傷を負うという大惨事となりました。欄干を木製から鉄製のものへと付け替える工事が進む最中の出来事でした。 転落したバスに駆け寄る人々

◇転落したバスに駆け寄る人々


は『富山県警察百年のあゆみ』より
は『写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み』より
は「拾壱号国道改良工事及富山大橋改築工事説明書(富山県立図書館所蔵)より








−欄干の移り変わり−

竣工間もない頃の欄干(鉄製) 終戦直後の欄干(木製) 現在の欄干(鉄製)
竣工間もない頃の欄干(鉄製) ▲終戦直後の欄干(木製) 現在の欄干(鉄製)








橋脚沈下

 昭和44年7月、豪雨による濁流のため、左岸から2番目の橋脚が最高で3.45mも沈下し、路面がV字型にくぼんでしまいました。県の東西を結ぶ大動脈であったこの橋が通行止めになったことから、周辺の交通は大混乱に陥りました。急遽、上流の有沢橋と下流の神通大橋を、それぞれ一方通行の迂回路とするなどの対応を行ない、翌月に簡易組立式の仮歩道橋と仮車道橋が設置され、ようやく通行止めは解除されました。しかし、完全復旧にはそれから1年を要し、完全に通行できるようになったのは、昭和45年6月25日のことです。沈下の原因としては、交通量の激増や砂利の乱掘などがあげられています。


V字型にくぼんだ富山大橋

V字型にくぼんだ富山大橋

『富山市史 下巻』より

斜線部が事故部分
斜線部が事故部分 ▽は橋脚、▼が沈下した橋脚の位置仮橋の幅はそれぞれ3.4m


これからの富山大橋

 現在も、富山大橋の重要幹線としての位置は変わらず、県内では中島大橋に次いで2番目に通行量の多い橋となっています。架橋から60年以上を経過した今、富山大橋架替計画が進められており、新橋の完成後、現橋は取り壊される予定です。文化遺産として保存の道も模索されましたが、耐久面等の問題から不可能であるという結論が出され、架け替えが決定しました。しかし、新たに架けられる三代目橋の基本デザインは、現橋の面影を残した鋼桁橋となるそうです。また、新橋の橋詰には、富山大橋の歴史を語る記念碑を設け、取り壊しにあたっては、「渡り納め式」などの記念事業を行うことも考えられているそうです。

現在の富山大橋

現在の富山大橋



 
 橋そのものは消え失せても、その役割は、面差しの似た次代に引き継がれ、傍らにはその事跡が残される…まるで親子の世代交替のようだと思いませんか。長い時間、富山の人々を見守ってきた富山大橋です。あの姿が見られなくなるのは非常に残念ですが、あとわずか、過去に思いを馳せながらゆっくりと歩いて渡ってみてはいかがでしょうか。




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