←博物館だよりINDEXへ戻る

第四十七号
平成12年12月19日
●収蔵品紹介  ●富山大橋〜現在・過去・未来〜その1



収蔵品紹介
『新大橋開通記念杯』


新大橋開通記念杯

上部より

新大橋開通記念杯(側面より)

側面より


 これは、新大橋の開通式の際に、記念として関係者に配られた杯です。新大橋とは、どこに架かっていた橋なのでしょうか。
 答えは神通川(じんづうがわ)、現在の富山大橋の架かっている場所です。つまり、新大橋とは初代富山大橋とも言うべき橋なのです。
 さて、今回のテーマは富山大橋です。どうして、ここに橋が架けられたのかを考えるため、話を新大橋の架橋から始めることにしましょう。





富山大橋〜現在・過去・未来〜 その1

 新大橋架橋については連隊の新設は切っても切れない関係にあります。さて、どのような関係があるのでしょうか。


連隊の新設


連隊の経路
 明治40年、富山県東部と岐阜三郡を徴兵区とする歩兵第六十九連隊が編成され、翌年3月富山に配置されました。当時、田刈屋(たがりや)地内にあった富山駅に到着した連隊は、神通川左岸堤防沿いに南下、旧北陸道を通って兵舎(現富山大学敷地)に至りました。富山駅が現在地に移転するのは、同年11月のことです。また、当時は神通川の現富山大橋の位置に、まだ橋はありませんでした。 連隊の経路

到着した歩兵第六十九連隊

◆到着した歩兵第六十九連隊
連隊が到着した日、歓迎する人々が沿道を埋め尽くした。


新大橋の架橋

 連隊が配置されるにあたっては、これと富山市の中心部とを結ぶ道路と橋梁は不可欠なものでした。そこで、翌年、連隊に至る道路が新設され、神通川には新たな橋が架けられたのです。この橋が「神通新大橋」です。先に架けられていた神通大橋に対して付けられた名称で、しばしば省略して「新大橋」と呼ばれました。また、連隊に至る橋であることから、「連隊橋」とも呼びました。「兵営道路」といわれる新道は、その名の通り、連隊の前で止まっていました。道路の新設位置については、ほかに愛宕(あたご)町から延長する愛宕町線と旅籠(はたご)町から延長する旅籠町線の二案があったようですが、工費が少なく比較的有利と考えられる諏訪川原(すわのがわら)線が採用されました。
右岸から見た新大橋

◆右岸から見た新大橋
徴兵制があった戦前においては、徴兵検査を受けて初めて一人前の男と認められた。そして、徴兵検査に合格した男たちが入隊するため、まず渡ったのが新大橋=連隊橋である。


新大橋開通式

 兵営道路および神通新大橋の開通式は、明治42年4月14日に現地にて行われました。三夫婦(※)および来賓各位の渡り初めの後、連隊の兵が西詰から渡橋しました。当時の新聞によれば、これを見ようと集まった群衆は3万人とのことで、辺りは大変な騒ぎでした。橋詰では、丸太を持ちながら畑を必死に守ったにも拘らず、一般の渡橋が許されるやいなや、一時に人々がなだれ込み、踏み荒らされてしまった気の毒な人もいたようです。
開通式開場

◆開通式開場
東詰の河原に設けられた開通式式典会場に集まった群衆。


※現在に至るまで渡り初めは、三代の夫婦が揃った一家により行われる風習があります。この時には市内土居原町の青木家三夫婦により行われました。
渡り初め

◆渡り初め
開通式の様子を描いた図

開通式の様子を描いた図

東詰・西詰の両方に、「開通式」の額を掲げた大きなアーチが設けられた。
宇佐美知事と2名の技師が先導し、青木家三夫婦が渡り初めを行なった。 『富山県政史』より




 開通式で一つの事件がありました。まだ、渡り初めも終えない内に、旅団長が東詰の式典会場に赴くため、西詰から橋を渡ったというのです。見物客の中には「合点がいかぬと首を捻って居るものが多かった」ということです。各紙、翌日の新聞に批判を載せていることからしても、一般にかなり批判が高かったのでしょう。




新大橋の構造

 新大橋は明治41年6月に起工し、翌42年4月に竣工しました。長さ238間(約428m)、幅が3間3分(約6m)の木橋でした。大出水にも耐えられるよう堅固な造りになっていたそうで、担当技師の報告を抜粋すると次のようになります。 新大橋の橋台

◆新大橋の橋台
頑丈に造られた橋台。

橋台は基礎に地杭
(ぢくい)及十露盤木(そろばんぎ)を敷設し、厚二尺のコンクリートを施し、以て所定の重荷に堪へしめ、上部に煉瓦(れんが)石を畳積し、橋桁の接する部分は特に硬質の石材を用ゐたる

 
 専門的なことは分からなくても、コンクリートやレンガも使って、とにかく頑丈に造られたのだということは分かりますね。工費は道路と橋を合わせて、約7万5千円でした。これは、現在の約8千万円にあたり、同36年に架設された木造神通大橋の工費の約2倍になります。




◆の写真は絵葉書より


呉羽山と市電

 新大橋は、連隊だけではなく富山市中心部から神通川対岸に至る上でも便利な位置にありました。それまでは、上流の有沢橋か下流の神通大橋まで迂回しなくてはならなかったのです。さらに、富山市が呉羽山公園の開発を計画したのを受け、大正5年11月市内軌動が呉羽山の麓まで延長されることになり、この橋上を電車が走り始めました。桜橋のように軌動専用橋を隣接させるのではなく、橋の上に軌道を通しました。こうして新大橋は、人々に呉羽山を身近にさせることにも一役かったのです。 新大橋を渡る市電

新大橋を渡る市電
大正5.11.21付『北陸タイムス』


大出水による流出

増水した神通川

増水した神通川
頑丈に造られた新大橋でしたが、神通川の増水時には、その一部が損害を受けることもありました。大正3年8月の大洪水の際には、多くの橋が流出していますが、新大橋も全長238間の内126間が流出しています。上流の有沢橋、下流の神通大橋も共にその一部を流出しており、応急手当てとして一時桟橋式の仮橋が架設されました。次いで、大正9年6月の洪水の際には、西詰の橋脚2組と電車線路区画の支柱4組が流出しています。
『富山県の産業と港湾』より







架橋から30年の歳月が流れ、その間、たびたび神通川の濁流にさらされ続けた新大橋の老朽化は甚だしいものでした。また、改修された神通川堤防より約2メートルも下にあったため、陸上交通や治水に支障が出たことなどから、新大橋は架け替えられることになりました。こうして、新たに架け替えられたのが、現在の富山大橋です。新大橋の跡を継いだ、富山大橋はどんな歴史を持っているのでしょうか。



第49号へ続く



バックナンバーを見てね!


どうして神通川が二つに分かれているの?と思った方は 第45号
富山駅は田刈屋にあったって本当?と思った方は 第27号
桜橋の横を走っていた市電の様子は?と思った方は 第40号


 博物館だよりは各号単独で読むこともできますが、バックナンバーと合わせて読むと、より一層理解することができますよ。



▲UP

←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西奈津子)