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第四十四号
平成12年9月13日
●収蔵品紹介  ●富山藩の成立と富山城 
●天守閣ってなんだろう?



収蔵品紹介
和紙人形絵巻『前田利次公富山城入城絵巻』
中西京子 作

 当館の第2展示室には、大きなガラスケースに入ったジオラマが展示されています。殿様の行列を表しているようですが、よく見ると…人形は紙で作られているのです。顔の表情はありませんが、人々の一瞬の動きが据えられています。
 これは和紙人形作家の中西京子さんが製作されたもので、平成元年に当館に寄贈されました。中西さんは和紙を中心素材として「和紙人形ジオラマ」を作り上げている作家です。江戸時代の芝居小屋や、日本の祭り、源氏物語など様々なテーマを題材に取り上げられています。現在も製作・執筆活動をされ、国内外でジオラマ展示が行われていますから、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

前田利次公富山城入城絵巻

 さて当館にあるジオラマに表現された場面は、富山藩の初代藩主であった前田利次(まえだとしつぐ)が、富山城に初めて入る際、城の大手門にさしかかったところです。(殿様の参勤交代からのお帰りの場面ではありません。)富山城に初めての入城とは、どのような状況だったのでしょうか。今回はこの頃のお話しをします。
 このジオラマは郷土博物館2階第2展示室に常設しています。 ■



 富山城は、富山藩の居城であり藩政が執られた場所でした。が初代藩主前田利次が加賀藩より10万石を分与された時、富山城はまだ加賀藩のもので、富山藩の居城ではありませんでした。富山城はどのようにして富山藩のお城となったのでしょうか、その過程を追ってみます。

前田利家 新しい藩の主に

 1500年代末から加賀(かが)・能登(のと)・越中(えっちゅう)(地図(一)を参照)の三国のほとんどは、前田家の領土となっていました。やがて徳川幕府が開かれ、その領土を加賀藩として前田利長が治めることとなりました。そして慶長(けいちょう)10年(1605)利長が加賀藩主を引退し、跡目を弟の利常が継ぎます。
 寛永16年(1639)次の代を利常の長男光高(みつたか)が継ぐ際に、領地の10万石分が次男利次(としつぐ)へ、7万石分が三男利治(としはる)分配され、新しい藩が成立することになりました。利常の息子たちが3つの藩それぞれの藩主となったのです。(富山藩の誕生については博物館だより7号もみてください。)
前田家家系図

利次の領地と百塚の築城

利次が加賀藩から分配された、10万石分の領地の内訳は下記のとおりです。

10万石分の領地の内訳

利次に与えられた領地  利次に与えられた領地は、方々に分散していました(地図(二)を参照)。離れている領地を飛地(とびち)ともいいました。
 この領地内で、藩が政治の拠点にするための、適当な城がありませんでした。そこで、百塚(ひゃくづか)という地に新しい城を構えることとなったのです。(よって利次は百塚侍従(ひゃくづかじじゅう)とも呼ばれていました。)
【藩主利次はなぜ、最初から富山城を居城としなかったのでしょうか?それは、富山城周辺一帯は、まだ加賀藩の領地だったからなのです。】

利次の富山城入場〜借用の城
《和紙人形絵巻に表現された場面》

 加賀藩より10万石が分藩された時、その初代藩主となった利次はすぐに、百塚への築城を幕府に届け出ました。許可を得て工事にとりかかっていましたが、城はなかなか完成せず、加賀藩領内にある富山城を借りて移ることになりました。それは、自分の領地により近い場所で、藩政を行う必要があったからでしょう。百塚の城の完成を見守るためでもあったかもしれません。
 寛永(かんえい)17年(1640)10月利次は、加賀藩より借り受けた富山城に入りました。この時の様子が、表紙で紹介した和紙人形絵巻のジオラマで表現されているのです。
和紙人形絵巻のジオラマ

領地交換と富山居城決定 利次の花押
利次の花押(かおう)(サイン)
<加藤家文書より>

 百塚の城は、利次が富山に移ってからも、なかなか完成しませんでした。それは、藩の財政上の問題と、百塚という土地が築城に困難な地であったから、といわれています。
 一方富山城の周辺は、寛永17年に移ってきた利次の後から、徐々に多くの家臣も移り住んだようで、まるで藩の中心地のようになってきました。
 とうとう利次は百塚の新城を断念し、加賀藩より富山城を譲り受け、居城とすることにしました。

 しかし富山城を含む周辺の町・村は加賀藩の領地でしたから、領地の交換が必要でした。その際同時に、分散していて治めにくい領地も、一か所にまとめてもらうことにしたのです。
 よって利次は加賀藩に届け出て、万治(まんじ)3年(1660)に加賀藩と富山藩の領地を交換するという許可を得ました(地図(三)を参照)。これによって領地がまとめられました。また、幕府に願い出て、翌年には正式に富山居城も決定されました。


 ここでやっと富山に落ち着いた利次は、幕府から許可を受け、寛文(かんぶん)元年(1661)に富山城と町の整備にとりかかりました。分藩されて約20年も経ってから、富山藩の領地が確定し、富山居城が正式に決まったのです。


 皆さんは「天守閣」というと、どのようなイメージを浮かべますか。国宝の姫路城その他名古屋城・大阪城などを思い出されるかもしれません。どこも大きく立派な建物がある城ですね。
 しかし、天守閣とはそもそもどんなものなのでしょう。

天守閣とは
城の中のひとつの施設で、主として三層以上の高く立派な櫓(やぐら)を指すようです(必ずしも三層以上のものとは限りません。)また「天守閣」は「天守」といわれ、天主・殿主・殿守とも書きます。(江戸時代には主に天守といわれたようです。)

いつ頃できたのか
この建物が天守閣の始まり、とはっきりとは言えないのですが、室町時代以前の物見櫓が原形と言われています。

どうやって使うのか
主に戦時の防御のために建造されました。使いみちは ・見張り台や指令塔とする・上から弓矢・鉄砲を放つ、石を落とす ・最後の砦(とりで)として籠城する など様々です。また食糧や武器の倉庫でもありました。

天守閣の変化
天下統一を進めていた織田信長(1534〜82)が、天正7年(1579)安土城を築城しました。この頃から天守閣には、領主の権力の大きさを示すという意味が加わり、巨大化していきます。

江戸時代の天守閣
徳川家が江戸幕府を開き、全国を支配するようになると、城は大名の藩政の拠点として使用されていきます。よって天守閣の軍事用の役割も薄れます。また将軍家に関係するもののほかは、巨大な天守閣は建てられなくなりました。


現在の富山城  今回は天守閣のちょっとした一面しか紹介できませんでしたが、皆さんも各地のお城を訪ねた時、その城や天守閣はいつごろ・どんなときに・だれが建てたのかなど調べてみると、イメージとはまた違った天守閣が見えてくるかもしれません。
 ちなみに、現在の富山城は、昭和29年 富山市民の築城です。
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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)