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第二十号
平成10年9月5日
収蔵品紹介  ●富山市はじまり…  
●富山市いろいろ



収蔵品紹介
『祝 市制 提灯』
祝 市制 提灯
 この提灯は富山市が誕生した時に、それを祝って灯されたものです。
 わたしたちが住む富山市は、現在人口約32万人、面積約200km2
 この富山市がいつ誕生したのか、そしていつ今のような形になったのかご存じですか?
今回はこの辺りにスポットをあててみましょう。



 法制の整備 市制町村制并理由書
 明治16年に現在の富山県が誕生した時(詳しくは「博物館だより第6号」参照)には、まだ「市」はありませんでした。
 明治政府が大日本帝国憲法の公布を控えて、地方行政の整備のために「市制・町村制(しせい・ちょうそんせい)」を発布したのは明治21年のことです。翌年の施行までは1年間の準備期間としました。この制度は、市町村を中央集権的国家体制の基礎的な地方団体と位置付けるもので、市は直接府県に包括され、町村は一旦郡に包括され、更に府県に包括されるという形を取りました(下図参照)。
 また、市制は人口2万5千人以上の市街地に施行され、それ以下の所では町村制が施行されることと定められました。
 そこで、富山町は市制の指定を受けるための準備として、市街地に隣接する村々を併合しました。
 こうして明治22年2月2日、富山町は全国36都市のひとつとして市制の指定を受けたのです(後に4ヶ所追加指定 合計40都市)。
「市制町村制并理由書」
明治21年5月出版


 富山市誕生!
 明治22年4月1日「市制・町村制」が施行され、ここに“富山市”が誕生しました。
総面積は約1.9km2、人口は約5万7千人で、人口規模からすると日本海側では金沢に次ぐ大都市でした。人口についていえば、明治29年調べによると全国第14位となっています。
 また、指定都市を1つも持たない府県もあったにも関わらず、当県では富山と高岡の2都市が市制の指定を受けています。1府県で複数の都市が指定を受けたのは、山形・富山・大阪・兵庫・福岡のわずか5府県だけです。
 当時の富山が全国的に見て、どれほど隆盛であったかがわかります。ちなみに現在の人口は全国59位です(平成10年3月末現在)

 市長と市会 初代市長 前田則邦

初代市長 前田則邦
(明治22.6.2〜28.5.27任)
 市制が施行された後、5月4、5日の両日、市会議員選挙が行われました。議員数はその都市の人口によって定められており、人口5万人以上10万人未満の富山市は36人でした。もちろん当時の選挙はだれでもできたわけではなく、男子で多額納税者であるなどの資格を持つ者のみに参政権があたえられました。
 当時は、極めて少数の有資産者を中心とする政治体制だったのです。
 こうして選出された議員によって市会が構成されました。
さて、当時の市長は現在のような市民による直接選挙ではなく、市会が推薦した3名の候補者の内から、内務大臣が上奏裁可を経て選任することになっていました。こうして初代の富山市長に任命されたのが富山藩9代藩主の孫にあたる前田則邦(のりくに)です(「博物館だより第19号」参照)。
 市長は有給で任期は6年でした。ちなみに町村長は原則的に名誉職で任期は4年でした。

 ―歴代市長一覧―
初代 前田則邦 8代 上埜安太郎
2代 市川伯孝 9代 金山米次郎
3代 加藤厚寛 10代 野村嘉六
4代 関野善次郎 11代 平田紀一
5代 井上政寛 12代 山崎定義
6代 稲垣宗正 13代 森 勇
7代 牧野平五郎 14代 石坂豊一
公選
初代 尾山三郎
2代 富川保太郎
3代 湊 栄吉
4代 改井秀雄
5代 塩谷敏幸
6代 正橋正一
公選初代市長 尾山三郎
公選初代市長 
尾山三郎
昭和22.4.10〜25.5.9任
 戦後、昭和22年に「地方自治法」が制定され、市長は住民による直接選挙で選出されることとなり、成人男女すべてに参政権が与えられました。

 庁舎の変遷
 最初の市庁舎は、取りあえず総曲輪(そうがわ)の商工会議所の建物のなかに開設されました(現在の西別院の東)。そして明治25年に初の独立市庁舎が、現在の市民プラザの向かいあたりに竣工しました。その後、雪害や空襲に遭いながら、何度か移転を経て現在にいたります。

(1) 上新川郡議事堂跡に移転 (2) 同地で庁舎新築 (3) 新庁舎完成
(4) 旧総曲輪小学校跡に仮庁舎完成 (5) 現在地に新庁舎完成 (6) 現庁舎完成
明治22. 5
   25.12
  29. 4
 34. 9
大正 9.12
昭和21. 2
 29.11
平成 4. 5
総曲輪の商工会議所内に仮設
総曲輪に庁舎新築
上新川郡議事堂跡に移転(→M32.8 大火にて焼失)(1)
同地で庁舎新築(→16.12 大雪のため倒壊)(2)
新庁舎完成(→S20.8 空襲にて焼失)(3)
旧総曲輪小学校跡に仮庁舎完成(4)
現在地に新庁舎完成(5)
現庁舎完成

 市域の拡大
 富山市は市制施行以後、周囲の町村域を次々に編入していきました。昭和17年当時にはおおよそ神通(じんづう)川と常願寺(じょうがんじ)川に挟まれた部分がその範囲でした。そして戦後、昭和35年から41年にかけて和合(わごう)・呉羽(くれは)・水橋(みずはし)・富南(ふなん)の各地区と合併したことにより、現在の富山市の形ができあがりました。

 まるで羽ばたく鳥のような形だと思いませんか?
さて、どんな未来に向かって羽ばたいていくのでしょうか。
富山市統計書より
「富山市統計書」より


   市制施行当時 現在 施行当時を1とした、
現在の指数
総面積 1.91km2 208.79km2(平成10年3月31日現在) 109
人口 57,728 323,287(平成9年12月末現在) 5.6
世帯数 12,947 112,934(平成9年12月末現在) 8.7
議員数 36 40 -
議員数以外の現在値は『'98 統計からみる富山市』参照
 さて、いかがでしたか?
 平成11年4月1日で富山市は110周年を迎えます。いつから110年なのか、これでわかりましたね。
 上の表は市制施行当時と現在の富山市を比較したものです。随分違いますね。この間に富山市はいろいろなことを経験しました。それは富山市の歴史であり、未来への礎となるものです。人間と同じですね。あなたが今暮らしている、この場所のことを知りたいと思いませんか?
 そう思った方は、どうぞご来館ください。



 富山市章
 富山市のマークをごぞんじですか?右の(1)が富山市章です。
 この「16の角菊紋」は富山藩租前田利次(としつぐ)の時代に町役所の徽章として使用し、その後も代々富山藩で使われてきたものだといわれます。この紋を明治30年11月20日に富山市の徽章にするため市会に提案したところ、角を斜めに変更して使用することに決議されました。そして更に明治41年に徽章の中心に「富」の字を配するよう改められました。
(「富山市史」参照)

 なお古谷常蔵著の『ちりとり』(昭和11年)に、富山藩御会所の定紋として、(2)図案が載せられています。そして富山市の紋章の菱菊は金沢藩のものを使用したのであろうか、後の識者の判断を待つと締め括っています。
 もし、“角菊を斜めに”の意味が、角(かど)を斜めにカットするということだけではなく、角(かく)菊を斜めに(菱菊)にするということも含んでいるとすれば、(2)が市章のもとになった角菊紋なのではないでしょうか。
富山市章
(1)富山市章
市勢隆々として四方に伸展することを象徴しています。
富山藩御会所の定紋
(2)富山藩御会所の定紋

 富山市民の歌  富山市の花・木
昭和27年に富山産業大博覧会(昭和29年)にそなえて募集され、奥井友子さんの作品が入選しました。

 光る立山 仰いで伸びる
 県都富山は みんなの街だ
 ああ あの焦土に たちあがり
 築いた大路に建設の鐘高鳴るよ
 自立の市民 自立の市民  みな意気高く 
 つくろう!  住みよい民主の街を

<作曲:黒坂富治、編曲:飯田信夫>
緑化推進のシンボルとして昭和48年に制定されました。
市の木「けやき」 市の花木「つばき」 市の草花「あざみ」
市の木 市の花木 市の草花
「けやき」 「つばき」 「あざみ」


富山市のキャッチフレーズ「立山あおぐ特等席。富山市」
上は平成9年決定された富山市のキャッチフレーズで、公募により 金 佐知子さんの作品が採用されました。



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