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第十九号
平成10年8月11日
●収蔵品紹介  ●富山の絵師たち〜郷土の美術工芸品展〜



収蔵品紹介
『山水図』
前田則邦(まえだのりくに)(弘化4年(1847)〜大正4年(1915))




前田則邦は初代富山市長となった人物です。(任期 明治22年〜28年)
 富山藩の9代藩主前田利幹(まえだとしつよ)の孫として生まれます。
 幼名は竹太郎(武太郎)、また民邦(たみくに)、春江ともいいました。
 藩政時代 嘉永(かえい)7年(1854)に知行500石と、若土(わかつち)という姓をもらい、富山藩主前田家の親類でありながら、家臣のひとりとなります。
 廃藩置県後の明治8年 前田に復姓し、富山師範学校校長や、婦負・上新川・中新川の郡長、十二銀行(北陸銀行の前身)頭取などを務めました。
 幕末から大正期まで、長い間富山の政治の中心にいた人物ですが、このような作品も残しています。





《《主に幕末〜昭和期に活躍した、富山出身の絵師たちを紹介します。》》


 新川郡鉾(ほこ)ノ木村(現在の立山町)に生まれる。
 名は貞二。
 18歳で江戸に上り、絵を谷文晁・高久靄崖(たかくあいがい)に師事する。その後京都の貫名海屋(ぬきなかいおく)に書と画を学び、大坂では篠崎小竹(しょうちく)に漢詩を学ぶ。
 さらに大分の広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かんぎえん)で修業をつみ、長崎では清国人画家の陳逸舟(ちんいっしゅう)に南画を教授される。
 京都に戻り、御所修復の際に、障壁画を描く画家として選ばれる。その頃西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)といった志士たちとも交流を重ねた。
 明治13年、京都府の画学校の開校とともに同校教授となるなど、後進の指導にあたった。
雪中独騎図




 黒部市生地に生まれる。
 名は亀之助。
 明治22年 東京美術学校に入学。在学中には岡倉天心(おかくらてんしん)、フェノロサ、橋本雅邦(はしもとがほう)、川端玉章(かわばたぎょくしょう)に師事する。さらに同校研究科に進み、インド・ペルシャ・中国・日本の古画の研究に打ち込む。明治27年に卒業し、山梨や栃木で中学校教諭を勤める。
 明治33年に退職してからは、作品制作と論文執筆に専念する。書もよくし、書画一体論を唱えた。
 山水や仏教画の作品を多く描いた。




 新川郡江上村(現在の上市町江上)に生まれる。
 名は平吉。
 京都に上り、紀広成(きのひろなり)(山脇東暉(とうき))に師事し、広均と号す。広成の死後に広均と号し、のち景文(けいぶん)に師事する。また貫名海屋(ぬきなかいおく)に南画を学ぶ。
 安政3年(1856)御所学問所の杉戸に描いた『花車図』は、孝明(こうめい)天皇の意にかなったという。
 中国風の彩色方式を取り入れた写生画を得意とした。
金碧西園雅集図




 西砺波(となみ)郡福光町の麻布問屋の豪商石崎和善の五男として生まれる。
 名は猪四一。
 12歳から加賀友禅絵師の山本光一に画を学び、明治36年から京都で竹内栖鳳(せいほう)に師事する。
 文展・帝展への出品作が特選をとり、以後帝展には無監査出品の栄誉が与えられた。
 大正14年には、京都市立絵画専門学校の教職に就くとともに、私塾を開いて多くの弟子を育成した。
 海外へ出掛けることも多く、洋画の作風も取り入れた。また登山も好み、明治42年には日本山岳会員として同志3名と共に民間人で初めて立山連邦の剣岳の登頂に成功した。
 海外でもヒマラヤなどに登山をしている。登山した際のスケッチなども残されている。
麗日孔雀図

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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)