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第十六号
平成10年5月20日
●収蔵品紹介  ●浮世絵版画の世界
●とやま幕末物語その3



収蔵品紹介
『十二ヶ月花合』 (全12枚より)
五月 夫蓉(芙蓉)牡丹 (ふようぼたん) あこや−尾上多賀之丞

     豊原国周(とよはらくにちか) 明治13年(1880)発行

十二ヶ月花合  花合(はなあわせ)とは、平安時代には花をもちよってその花に寄せる歌を詠(よ)んだあそびでしたが、江戸時代の文政(ぶんせい)期頃(1818〜)から、花などを12ヶ月に配した花かるたというあそびになったようです。この『十二ヶ月花合』もこの流れを汲むものでしょう。季節ごとの花と歌舞伎の役者との組み合わせという、華やかな図柄の浮世絵版画です。
 牡丹は中国原産の薬用・鑑賞用の植物で、大輪の花を咲かせますね。
 あこや<阿古屋>は、『壇浦兜軍記』(だんのうらかぶとぐんき)という歌舞伎(かぶき)芝居<享保(きょうほう)17年(1732)作>の中に登場する役です。この歌舞伎の筋書きは源平合戦にまつわるものとなっています。
 あらすじ・・・平景清(かげきよ)は源頼朝に逆賊として追われています。
 その景清(かげきよ)を探そうと、頼朝の家臣 畠山重忠・岩永左衛門が景清(かげきよ)の愛人あこやに行方を問い詰めますが、あこやは何も話そうとしません。
 そこで重忠はあこやに琴・三味線・胡弓の楽器を弾かせ、その心の内を知ろうとします。
 楽器の音色から、あこやは景清(かげきよ)の行方を本当に知らないのだと判断した重忠は、あこやを解放してやります。

 このように浮世絵版画には歌舞伎を題材として描いた作品がたくさんあります。
 今回はそれを中心にご紹介しましょう。





浮世絵版画の世界 館蔵企画展 I《木版画名品展》より
当館所蔵の歌舞伎役者絵

 浮世絵版画には、日本各地の風景や、武者や美人といった人物など、様々な図柄が描かれています。
 歌舞伎芝居やその役者も、よく描かれている題材のひとつです。
 『仮名手本忠臣蔵
(かなでほんちゅうしんぐら)』を題材とした版画をみていきましょう。

 忠臣蔵(ちゅうしんぐら)はみなさんよくご存じの江戸時代のお話ですね(赤穂(あこう)浪士が主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇敵 吉良上野介(きらこうずけのすけ)を討ち取った)。元禄(げんろく)14、15年(1701,02)に実際にあった事件でした。
 これを芝居として脚色したのが、歌舞伎芝居の『仮名手本忠臣蔵』です。寛延(かんえん)元年(1748)に作られました。

仮名手本忠臣蔵

 この版画は『仮名手本忠臣蔵』の一場面を描いた作品です。
 描かれた役者は5人で、この版画が刷られた明治20年代の大スターたちです。
(左から)尾上菊之助尾上菊五郎市川団十郎
     中村芝翫(しかん)市川左団次(さだんじ)

 このような歌舞伎芝居を描く版画は、大きく2通りに分かれます。
1.芝居が上演される前に刷り上げる
今でいえばポスターのようなものですね。
歌舞伎役者が舞台を想定してかいた絵を見て、絵師が版画の下絵を描きます。
よって絵師の芝居や役者に関する知識や、それまでの経験が必要とされます。
2.芝居の上演が始まってから制作する
絵師が実際に芝居を見て、役者や芝居の場面を描きます。
この場合は、役者の衣装や動作・表情など実際に近いものを描くことができるでしょう。

 次に、役者を主題に取り上げた版画をみてみましょう。

      『梅幸百種(ばいこうひゃくしゅ)
          (明治26年発行)

 梅幸(ばいこう)とは歌舞伎役者の名で、この版画には梅幸が演じた役100種類が描かれています。
(実際にすべてを演じたかどうかは不明)
 目録(木版刷)には100点の題が載っていますが、当館にはそのうち45点を収蔵しています。
早野勘平
 これはそのうちの作品2点です。(→↓)
 両方とも『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の中に出てくる役のものです。
早野勘平(はやのかんべえ)

おかる  梅幸(ばいこう)とは

 歌舞伎俳優の名で、尾上梅幸(おのえばいこう)という。(初代・2代・5代の梅幸はそれぞれの代の尾上菊五郎(おのえきくごろう)の前名であった。)
 この『梅幸百種』に描かれたのは、5代目梅幸。本名は寺島栄之助。明治3年(1870)〜昭和9年(1934)。名古屋生まれ、5代目尾上菊五郎の養子。
 東京中心に活動、明治36年に5代目梅幸を襲名。名女方として晩年まで活躍。
おかる

 
 これら版画の作者である浮世絵師 豊原国周
(とよはらくにちか)(1835〜1900)は、安政年間から明治33年に亡くなるまで、浮世絵の絵師として活躍した人物です。姓は大島のち荒川、本名は八十八といいました。はじめ長谷川(はせがわ)派の豊原周信(とよはらちかのぶ)に入門し、羽子板絵の原画を描いていました。その後、歌川国貞(うたがわくにさだ)に学び、役者絵を描くのを得意としました。役者の役柄や個性をつかむことに長けていたようです。
 代表作品には『梅幸百種』『市川団十郎演芸百番』などがあり、明治時代の役者・芝居に関する情報をも残しています。また『開化人情鏡』など美人画のシリーズものも描き、これは明治女性の風俗を伝える作品でもあります。



 歌舞伎の役者に個性があるように、歌舞伎役者絵の中の役者の顔も一人ずつ違っています。
 このような浮世絵版画をゆっくりと眺めてみませんか。


とやま幕末物語


<その3>
 安政(あんせい)5年(1858)2月に、富山でマグニチュード約6.8という大地震が起こったことを14号でお話しました。
 さて、この頃 富山藩の藩主は十二代 前田利声(としかた)でした。前代の十一代藩主 利友(としとも)は病弱でしたから、父である十代藩主利保(としやす)が、隠居の身でありながら、富山では実質上藩政を執っていました。
 利声の代になってもそれは変わりませんでした。
 富山は安政2年の大火事に5年の大地震、と災害が続いていました。
 藩の経済を立て直すため、利声は多くのお札を発行しますが、反対に金融混乱をおこしてしまいます。 このことなどで、利声は父 利保と対立するようになります。
富山派
 利保 (としやす)
 (十代藩主)
 富山の藩士 
江戸派
 利声<十二代藩主>
 利友<十一代藩主>
 利友・利声 実母 橋本氏(毎木)
 江戸詰家老 富田兵部
  この図のように富山方と江戸方に分かれて、富山藩内で争うことになってしまったのです。
 隠居しても政治向きに口を出す父と、自立して独自の権力を持ちたい子供、といった構図でしょうか。(この対立は利友の代からあったようです。)
 富山藩の経済政策上の対立と藩政権力の奪い合い、ということのようですが・・・どちらに軍配が上がったのでしょうか。


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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:兼子 心)